古筆 —三蹟・藤原行成—
はじめのはじめに
大河に紫式部が取り上げられると聞いてからずっとそわそわしていて収まる気がしないため、同じような方々と盛り上がることができればと思い、公開いたします。
紫式部とも交流があった(出仕時期がかぶっている)、藤原行成の筆についてです。
図はファイルの大きさの関係で載せておりません。
以下、令和元年7月に提出した、日本美術史ゼミレポートの原稿ママです。
はじめに
東京国立博物館にて2019年5月3日~6月2日に開催された特別展「美を紡ぐ 日本美術の名品 ―雪舟、永徳から光琳、北斎まで―」を見学し、小野道風筆「屛風土代」や藤原定家筆「更級日記」、伝藤原公任筆「古今和歌集 賀歌三首(大色紙)」等の古筆を鑑賞し、書の美しさに見惚れた経験をもった。そこで、日本美術のなかであまりポピュラーとはいえない「古筆」について研究したいと考えた。
平安期に活躍した「三筆」、「三蹟」と称される六人の能書家を研究し、和様書道の完成の道筋をたどる。また、古筆という、作者の思いが絵画や彫刻などよりも如実に表れているように思える作品を研究することで、作者の人柄などが作品にどのように表れるのかを考察したいと考えた。そこで、三蹟・藤原行成についてその人柄や人生を紐解きながら、何故行成が書を究めたのかを考察する。
古筆とは
単に古代の筆跡という意味ではなく、主に平安時代から鎌倉時代にかけて書かれた書の優品を指す。特に仮名書きのものを指すこともある。桃山時代から江戸時代初期にかけての茶道の盛行に伴い、鑑賞用として古筆が盛んに愛好された結果、巻子や冊子の完全な形で伝えられた歌集などが多くの愛好者のために、幅仕立に適する大きさに切断された。こうして切断されたものを「古筆切」と呼ぶ。断簡は切断された当時の地名や所有者の名、切断した時代に因んで命名する習慣がある。
文字をしたためること、そこから生み出される「書」は、文字そのものの意味と造形を兼ねた、特有の芸術性が認められる。一文字一文字に祈りが込められ写された装飾経、連綿と記された仮名に流麗な美しさが見られる古筆切、個性的な文字や内容に人柄が表れる墨蹟や書状。目的は異なるが、いずれも他者に「伝えること」が強く意識されており、文字の形、さらにはそれをしたためる料紙に創意工夫が凝らされ、筆者の高い美意識を味わえる。
こうして生み出された「書」の美しさは人々を魅了し、現在に伝えられてきた。その多くが本来の目的を離れ、内容だけでなく筆者や伝来に価値が見出され、たとえ一部分であっても鑑賞に適するよう表装されている。あるいは書状などのように、その時代の様相を具体的に知る手がかり、史料としても重要な役割を持つ。
古筆の「美」
書の造形を「視覚表象」として捉え直してみると、「遊戯性」が挙げられる。「読む」のと同時に文字の形状を「視覚的に認知」して、その造形的表情を感じ取ることである。
漢字や仮名の手書きによる字姿は、さまざまな形や質感をもった「点」「線」が複合して成り立つものだ。漢字や仮名文字を記号的ないしは意匠的に扱う造形表現は上代からあった。また、書き手と受け手との感覚が重なり合うことによって文字の造形的表情への関心を共有していたため、こうした視覚的受容行為は絵画と通じていると言える。そもそも上代における書字と絵画の関係には、今日ほどの意識的区別はなく、相互に積極的な関わりを保ちながら双方の特性が自然と引き出され、一つに融け合ってゆくような関係にあった。
仮名は個々の文字自体が美しいというよりも、テキストが書かれてある全体観から受ける印象に、私たちは美しさを覚えていると言える。絵画と並列的に扱われ、一部は文字の形を「象る」という意識方向へと転換されて、絵画表現に沿うものとなっていった。
三筆
平安時代初期に活躍した嵯峨天皇、空海、橘逸勢の三人を指す。
三筆の三人が活躍した9世紀初頭の日本は唐風の文化が栄えていた。この流れを受けて書風も唐風の漢字書道が好まれており、三筆の作品も唐の影響を多大に受けている。
嵯峨天皇(786~842年)
桓武天皇の第二皇子。
唐の文化に興味を持っており、在位中は宮廷を中心に唐風文化が栄えた。書では初唐の三大家の一人である欧陽詢の書風を愛好しており多大な影響を受けていたが、空海との交流により次第に空海風の書を書くようになる。
代表作『光定戒牒』は楷書、行書、草書の併用が見られる。
l 【図1】『光定戒牒』嵯峨天皇
最澄の弟子・光定が弘仁十四年四月十四日に一乗止観院にて菩薩戒を受けたことを証明する文書。比叡山に大乗戒壇を設けるために尽力した光定の功績に敬意を評して天皇自ら染筆した書。
この書は空海の他、王羲之、欧陽詢等の影響もみえる。筆力、生気がみなぎった三十八歳の書。
空海(774~835年)
「弘法大使」、「五筆和尚」とも称される。
天台宗の開祖の最澄へ宛てた全五通の手紙の第一通目『風信帖』が最も優れているとされる。最澄宛ての手紙は全五通のうち三通のみ残存。書風は三通とも異なる表現を持っており、これまでの書の基本となっていた王羲之の書法に則ったものに、顔真卿の筆法を加えている。おおらかで上品な書風の中に力強さも垣間見える非常に趣のある書風。唐様の技法だけでなく軽やかで柔らかい表現も見られ、ここからやがて日本風の書である和様へと繋がる。
l 【図2】『風信帖』空海
空海が最澄に宛てた三通の消息を合わせて巻子本とし、一通目の書き出しが〈風信雲書〉とあるので合わせて「風信帖」と呼称。
空海四十歳以前の書。
橘逸勢(?~842年)
平安時代初期の貴族。空海と共に遣唐使として唐へ渡った。
留学中は唐の文人たちに書の腕前を称賛されており、隷書を得意としていたといわれる。確かな真筆は残っていないが、行書で書かれた『伊都内親王願文』は橘逸勢が書いたものではないかとされる。
l 【図3】『伊都内親王願文』伝橘逸勢
伊都内親王(桓武皇女、在原業平の母)が生母藤原平子の遺言によって、天長十年九月二十一日、山階寺に香燈読経料を寄進した時の願文。
橘逸勢筆と伝えられているが、確証はない。唐風の影響が強い。
三蹟(三跡)
和様と呼ばれる日本風の書を完成した。
遣唐使廃止の結果、国風文化が成立。書道でも和様が成立し、広く流行していった。
小野道風(894~967年)
十世紀に活躍した貴族。和様書道の礎を築く。王羲之の生まれ変わりと称されるほど達筆であった。空海の書を批判したという逸話も残されている。存命中は「道風のぬしのいますかりける世にこそ、ひとくだりももたぬ人は、はぢに思ひ侍りけれ」(『今鏡』巻第五)とされ、重宝されていた。書風は「野跡」(やせき)と呼ばれる。後の日本の書道史に大きな影響を与えた。
王羲之風の書を基礎としながら、日本風の優美な書風を作り出した人物だと考えられている。小野道風直筆の書籍はかなり現存しているが、いずれも漢文で、仮名の真筆は残っていない。
代表作品は、万葉仮名を草書体で記した草仮名で書かれている『秋萩帖』だが、小野道風の真筆であると断定されていない。『屏風土代』という屏風に楷書、行書、草書で書かれている漢詩を書きつけたときの下書きは小野道風が書いたものであると考えられている。『屏風土代』や、楷書、行書、草書で書かれた『玉泉帖』といった漢詩の作品には、楷行草書と複数の書体が交えて書かれている。
l 【図4】『秋萩帖』伝小野道風
平安中期、十世紀頃の代表的な草仮名の遺品。〈安幾破起乃云々〉歌の書き出しからこの呼称になった。巻子本として装丁されている。
第一紙は古様の書きぶりで、小野道風筆とは確認できないが、ほぼ同年代の書といえる。しかし、第二紙以下は優麗さが増すとともに連綿線も強調され、和様化が大きく進んだ次代のものと考えられる。
藤原佐理(994~998年)
平安時代中期の貴族。特に草書が優れており、佐理の筆跡は「佐蹟」(させき)と呼ばれまた。藤原佐理は、大鏡に「御心ばへぞ、懈怠者、すこしは如泥人ともきこえつべくおわせし」と記されている。怠慢な気質で、ぐずぐずと態度がはっきりとしなかった性格がうかがえるように、だらしがない人であったようで、現存する真筆は詫び状がほとんどである。しかし、裏を返せば詫び状であっても現存しているということは、それほど優れた作品だと認められたからであろう。
小野道風が築き上げた和様の基礎を、藤原佐理がさらに発展させた。
代表作品は『詩懐紙』、『離洛帖』、『国申文帖』である。『詩懐紙』の漢詩や和歌の写しには小野道風の書風の影響が見られるが、中年から晩年にかけての作品には佐理独自の書風が見られる。『離洛帖』は草書の詫び状で唐風色が強い。『国申文帖』は草書の詫び状。
l 【図5】『離洛帖』藤原佐理
大宰大弐藤原佐理が正暦二年、九州に下る途中、長門国赤間の泊から従兄弟で都にいる参議兼春宮権大夫藤原誠信に宛てた消息。都を離れる際、摂政藤原道隆(皇后定子の父)に赴任の挨拶を行うのを失念し、旅中から佐理の従兄弟に詫びの取りなしを申し送ったもの。首行の語をとって「離洛帖」とした。
雄健な筆致を奔放自在に駆使した巧妙な書法は、生々しい感情を書線に託した劇跡と称えられている。佐理四十八歳の書。
芸術としての古筆
絵画的な書
散らし書き、分かち書き、返し書き、重ね書き、見消が登場する方形の色紙は、もともと絵の描かれた屏風や襖に言葉を添えて貼り込むためのもの。絵に歌を組み込ませ、歌に絵を組み込ませる必要から生まれた。
和様文字
和様文字:「日本風にアレンジされた書きぶりの漢字(中国文字)」ではなく、平仮名(女手)、片仮名とともに日本で発明された漢字のことを指す。
和様文字の書きぶり:元になった中国文字が想起しがたいほど崩された文字。女手で書かれた漢字、「女手の漢字」とも言える。漢字の隷書体と楷書体が異なる以上に、中国の楷書や行書と「和様漢字」は異なっている。
藤原行成(972~1028年)
平安時代中期の公卿。
藤原北家、右少将・藤原義孝の長男。官位は正二位・権大納言。一条朝四納言(「寛弘の四納言」)の一。
「三蹟」の一人。その書は後世「権蹟」と称された。書道世尊寺流の祖。
小野道風の書風に影響を受け、和様書道を完成させた。
行成の一族は世尊寺流の宗家となって世尊寺家を名乗るようになる。室町時代後期に世尊寺家・世尊寺流ともに断絶。
人柄
行成は、清少納言の『枕草子』に、藤原斉信と並んで登場回数が多い。清少納言は皇后定子方、行成は中宮彰子方と対立関係にあった。しかし、『枕草子』第百三十六段「頭弁の、職に参りたまひて」には、二人が気の置けない仲であったことがわかるエピソードが残されている。百人一首六十二番に取られている清少納言の和歌「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」は当時頭弁であった行成への返歌である。その和歌に対し行成は「逢坂はひと越えやすき関なれば鶏鳴かぬにもあけてまつとか」と返した。このやりとりは二人が気の置けない仲であったことがうかがえるが、清少納言が枕草子にこのやりとりの一部始終を記したことから、行成の和歌下手とデリカシーのなさが千年後の今日まで残る結果となった。また、清少納言がこの和歌を詠むきっかけとなった行成からの手紙について、「いみじう言多く書きたまへる、いとめでたし」と同段で述べている。また、「文どもを、はじめのは、僧都の君、いみじう額をさへつきて、取りたまひてき。後々のは御前に。」ともあり、三通の文のうち一通を、定子の弟・隆円(僧都の君)が一女房である清少納言に頭を下げてまで欲しがり、残りの二通を定子が取ったことが描かれている。宮中で若い頃から能書を認められていたことが分かる。
また、元号を当時の「寛仁」ではなく一年四ヶ月前に改元された「長和」と書いてしまうというミスを犯している。このように、「如泥人」と称せられただらしがない藤原佐理に比べて冷静沈着、完全無欠で、能吏しか勤め上げられないと言われていた蔵人頭からの昇進を天皇が許さなかったという行成の、史実とは異なる性格の一端が書からも見られる。
蔵人頭として、時の帝・一条天皇と、藤原道長の両者から信頼を得る。中宮彰子の産んだ道長の孫である敦成親王(後の後一条天皇)を皇位につけ、道長の権力を盤石なものにした。
万寿4(1028)年12月1日、藤原道長と同日に死去。
書風
瀟洒で明るい書風。書の根底にあるのは王羲之書法であるが、小野道風の影響を多大に受けている。行成は小野道風の没後に誕生したことから、世では小野道風の書が重宝されおり、道風の影響を大いに受けている。行成が記した『権記』には、夢の中で小野道風から書法を授かったというエピソードが書かれている。その道風を基盤としながら独自の天賦の才を加えて確立したのがこの書風であった。和様書風はまさしく行成によって完成されたと言える。
作品
代表作に中国唐代の詩人である白居易の詩集を書写した『白氏詩巻』や菅原道真の文章を書写した『本能寺切』などがある。現存する行成の真筆はすべて漢字で書かれたものであり、真筆と考えられる仮名の書は残されていない。
『白氏詩巻』
l 【図6】『白氏詩巻』藤原行成
l 【図7】『白氏詩巻』奥書 藤原行成
平安貴族の間で「文は文集・文選」と必修の教養の一つとして愛読された『白氏文集』巻六十五の中から八編の紙を書写したもの。巻末に寛仁二年(一〇一八年)の書写奥書があることから寛仁本と呼ばれる。行成四十七歳の筆。
筆画の隅々まで神経を配り、均整のとれた字形、瀟洒で流麗な書風で揮毫されている。署名はないが、自筆の書状などと同筆で行成の筆として疑いない。巻末の奥書では、元号を当時の「寛仁」ではなく一年四ヶ月前に改元された「長和」と書いてしまうというミスを犯している(見せ消ちの手法で訂正されている)。
行成の末裔・藤原定信が物売りからこの『白氏詩巻』を購入したことが奥書に加えられている。数多くの調度手本の揮毫や願文の清書などの能書活躍をした行成であるが、自らの家には日記と草稿本あるいは調度手本ではないいわゆる手本以外は残らなかったのではないかと推測される。
鎌倉時代の能書帝・伏見天皇、江戸中期の霊元天皇、有栖川宮家第五代職仁親王、高松宮家の手を経て東京国立博物館に所蔵される。由々しい伝来と、行成の完成した美しい和様の書を展開しており、平安時代中期を代表とする遺品として極めて貴重な一巻。
『近衛本和漢朗詠集』(伝藤原行成)
『和漢朗詠集』の漢詩が、筆力のある行書体でリズミカルに揮毫されている。また、仮名は豊潤な筆致で流動感あふれた書風で揮毫されており、漢詩の部分と美しい調和を見せる。『和漢朗詠集』は漢詩文五八八首、和歌二一六首におよぶ大部の詩歌集であるが、この筆者は終始一貫して端正で優美な書風を展開している。これによっても、並々ならぬ筆の才を持つ能書の手によるものと考えられる。
この近衛本は平安朝書写にかかる『和漢朗詠集』の写本で、王朝貴族が贈答の筆頭とした調度手本である。王朝貴族の美意識がうかがえるとともに、美しく華麗な料紙に端正で優美な書風で書写されていることなどから、書道史はもとより、料紙工芸の研究や国文学など各部において極めて重要な遺品といえる。
世尊寺流
藤原行成を祖とする和様書道の流派の一つ。行成が建立した寺院・世尊寺と、世尊寺という家名から世尊寺流と呼ばれるようになった。平安時代には宮廷や貴族などで権威ある流派として用いられていたが、室町時代に最後の当主の死によって断絶した。
世尊寺流の流れを汲んだ持明院流や、尊円流という新たな流派も生まれており、日本の書道史に大きな影響を残した。
なぜ書を究めたのか
行成の父・藤原義孝は中古三十六歌仙、祖父・藤原伊尹は撰和歌所の別当に任ぜられて梨壺の五人を統括するなど『後撰和歌集』の編纂に深く関与し、勅撰和歌集に38首が入首している。和歌に秀でた家系であったことから行成にも歌才が期待されるも、『枕草子』に記されているように歌才はなく、自分のアイデンティティのひとつとして書を究めたのではないか。
また、行成が一歳のときに祖父・藤原伊尹が逝去、二歳のときに父・義孝が病死し、一時は外祖父の養子になるなど、一族は没落した。元服後、従五位下から出世しなければならなかった。出世に必須とも言える歌才はなく、それならばと書を究めたのではないか。出仕するに際し字の読みやすさが求められるが、行成はただの仕事の道具ではなく、芸術品になりうるまでにその腕を磨いた。書の腕前も、高位の公達に目をとめてもらえば出世の糸口になり得たのだろう。
考察
古筆は書き手の想いがそのまま出る芸術品であることが分かった。また、時代や文化を映す鏡のような芸術品でもあった。芸術品でもあり、史料でもある書は、その美しさに心動された人がいたからこそその姿を現在まで伝えていると感じた。
高校時代に歴史の教科書でみた三跡の書は、実物を見たとき、思ったよりも上手くないとも感じた。それは、書という、古の人々は毎日何枚も書いていたものであったから、書かれた年代や、もしかしたらその日の体調によっても書の「味」が変わっていたからなのかもしれない。よっぽどの名筆でなければ書いた人の名前が残らないほど書が一般的だった時代。そのような時代に書かれた古筆が現在まで残っているという奇跡にも近いことを、人間が「美」という感性をもってして成し遂げたことに深い感動を覚えた。
絵画や彫刻も作者の心を存分に映す作品だと思うが、古筆は日常の中に溶け込んでいた。だからこそ、現在まで伝わっていない多くの作品があっただろうと考える。デジタルデバイスが普及した現在でこそ「書」という人の温かみや内面といった、その人そのものを映す文字というものは減りつつあり、貴重なものになっている。しかし、文字を残す手段が紙と墨しかなかった平安時代から、美しい書は芸術品だと考えられていたことに、人間の感じる「美」の本質は変わっていなかったことが発見できた。
藤原行成の人柄や経歴を知ることで、何故行成が書を究めたのか、その答えを自分なりに持てたと感じる。作者について知ることで、生み出された作品の味わいに深みが出るように思えた。「人を知り、芸術を知る」を究めたい。
授業を通じて
他の人の発表を通じて、美術の見方は一つではないということを再確認できた。展覧会のキャプションに書かれたことと、自分の作品に対する感じ方が正反対であることもあり、勉強不足を痛感させられることがかなりの頻度であったが、これもまた私の個性であり、美術鑑賞に正解がないことが分かった。また今回のプレゼンテーションにあたり、「古筆」を研究するために、ひとりの書家・藤原行成の人生を紐解いてみた。書風は「瀟洒で明るい」とされているが、周りからは「冷静沈着、完全無欠」と評されていた。しかし、一年四ヶ月前に改元された元号を書いてしまったりと、史料とは少し異なる人柄であり、周りの評よりも書風に近いのではないかと感じた。古筆は「芸術」として作られたというよりも「日常生活の延長」にあるものだからこそ、史料に近い性格を持っていると感じた。昨年の基礎演習では「王朝文学からみる賀茂祭」を研究したが、そこでは『枕草子』や『源氏物語』が「文学作品」ではなく、賀茂祭の様子を如実に伝える「史料」の価値を持つことが分かった。芸術品も「芸術」だけでなく「史料」としての価値があり、時代や文化を映す鏡でもあると感じた。今後の課題として、「芸術としての在り方」、そして「芸術以外の在り方」の両面を模索し、作品を未来に残すための新しいかたちも考えていきたい。
参考
・石川九楊『説き語り日本書史』新潮選書、2011年
・『藤原行成集』二玄社、1995年
・『歌仙歌合 伝藤原行成筆』二玄社、1993年
・『元暦校本万葉集 伝藤原行成筆』二玄社、1994年
・『近衛本和漢朗詠集 伝藤原行成筆』二玄社、1994年
・『曼殊院本古今集 伝藤原行成筆』二玄社、2008年
・『藤原佐理集』二玄社、1995年
・横山煌平[編]『和様の書美』二玄社、2013年
・古賀弘幸『書のひみつ』朝日出版社、2017年
・市古貞次・小田切進[編]『日本の文学 古典編 枕草子 下』ほるぷ出版、1987年
・笠島忠幸『書を味わう 鑑賞の手引きとくずし字解』淡交社、2010年
・笠島忠幸『日本美術史における「書」の造形史』笠間書院, 2013年
・書道入門 藤原行成〈https://shodo-kanji.com/word/w_hujiwaranoyukinari.html〉2019/06/30閲覧
・書道入門 世尊寺流〈https://shodo-kanji.com/word/w_sesonjiryuu.html〉2019/06/30閲覧
・書道入門 三筆―中国の影響を受けた書道家―〈https://shodo-kanji.com/d1-2-2sanpitsu.html〉2019/06/30閲覧
・書道入門 三蹟 ―和様の創生へ―〈https://shodo-kanji.com/d1-2-3sanseki.html?id=01-3〉2019/06/30閲覧
・清少納言とは気の合う友人?枕草子のやりとりを探る:藤原行成 編〈https://mag.japaaan.com/archives/76332〉2019/06/30閲覧
・『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(33) 藤原行成の登場〈https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/makura33〉2019/06/30閲覧
・「ふでの蹟」雑記帳 行成の和歌(3)〈http://fudenoato.cocolog-nifty.com/fude/2005/08/post_cea1.html〉2019/06/30閲覧
・鴨東骨董美術會 古美術・骨董用語〈http://www.kobijutsu-kyoto.jp/wordslist/kohitsu.html〉2019/07/06閲覧
・大和文華館 特別企画展 書の美術-経典・古筆切・手紙-〈https://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/yamato/exhibition/syonobizyutu.html〉2019/07/06閲覧
・東京国立博物館〈https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0022087〉2019/07/06閲覧
・文化遺産オンライン〈http://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/213537/1/1〉2019/07/06閲覧
・和樂 国宝「離洛帖」は謝罪文だった!? 意外と面白い「書」の物語〈https://intojapanwaraku.com/jpart/2216/〉2019/07/06閲覧
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