「フランシスコの平和の祈り」をもとに、個人的な平和の祈り〜「ミサにおける美しい祈り(Belle prière à faire pendant la Messe) 」1912年を参考に
日本・東京において日常お祈りされている「アッシジの聖フランシスコの平和の祈り」を私は次のように理解して、こころのなかで個人的に、次のようなことばでお祈りします。
平和の祈り
主よ
わたしを平和の道具にしてください
憎しみのあるところに愛を
争いのあるところに和解を
分裂には一致を
疑いには信仰を
誤りには真理を
絶望には希望を
悲しみには喜びを
闇には光を
もたらすことができますように
主よ
わたしを平和の道具にしてください
わたしたちがあれこれ求めることをやめ
かえって
慰められようとするよりも慰めることを
理解されようとするよりも理解することを
愛されようとするよりも愛することを
望ませてください
恵みのうちに主に恵みをうけ
私を忘れるうちに主に見出され
許しのうちに主に許され
死からよみがえることで永遠に生きるのだから
東京において日常お祈りされている、もともとの「アッシジの聖フランシスコの平和の祈り」は、以下のサイトにありました。
聖ドミニコ学院中学校高等学校校長ブログ
「平和の祈り」
このお祈りは、とても美しい日本語だと感じます。
美しい日本語でお祈りをさせていただき、いつもありがとうございます。
そして、この「アッシジの聖フランシスコの平和の祈り」を今日、個人的に私はお祈りするときに、
Belle prière à faire pendant la Messe
Plus ancienne version connue
(La Clochette, n° 12, déc. 1912, p. 285.)
を参考にして、自らの内にある理解に基づき、先程のようなことばでお祈りをしています。
Belle prière à faire pendant la Messe
Plus ancienne version connue
Seigneur, faites de moi un instrument de votre paix.
Là où il y a de la haine, que je mette l’amour.
Là où il y a l’offense, que je mette le pardon.
Là où il y a la discorde, que je mette l’union.
Là où il y a l’erreur, que je mette la vérité.
Là où il y a le doute, que je mette la foi.
Là où il y a le désespoir, que je mette l’espérance.
Là où il y a les ténèbres, que je mette votre lumière.
Là où il y a la tristesse, que je mette la joie.
Ô Maître, que je ne cherche pas tant à être consolé qu’à consoler,
à être compris qu’à comprendre,
à être aimé qu’à aimer,
car c’est en donnant qu’on reçoit,
c’est en s’oubliant qu’on trouve,
c’est en pardonnant qu’on est pardonné,
c’est en mourant qu’on ressuscite à l’éternelle vie.
La Clochette, n° 12, déc. 1912, p. 285.
「聖フランシスコの平和の祈り」について、ウィキペディアには、以下のようにあります。