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“生きるのにあきた”の正体

“生きるのにあきたな”と思うことがある。

きのうはこの連休に滞在させてもらったシェアハウスの住人で、大学を休学して横浜あたりでインターンしたり、遊んだり、恋したりと、楽しんで学んで悩んでいる大学生と朝まで話した。

その方と私はあるプログラムを違う時期に受けていて、共通言語があった。
それが私たちが長時間、ストレスなく心地いい場をつくる手助けをしてくれたことは違いないと思う。

共通の知り合いはいっぱいいるけど初対面という状況で、どんな人生を歩んできたのか、どんなことが好きで今はどんなことを考えているのか話した。

その中で、 “私は自分のことを生きることにあまり執着がなくて、生きるのにあきたなと思うことがある”と言っていた。
それは本当にそう思うことがあるし、間違ってなくて。
でも少し言葉足らずだったなとも思う。

シェアハウスで相部屋をしている彼に、共同生活はどう?しんどくなることない?と聞いた。

彼はしんどくないみたいで、半年経ったこともありうまくバランスをとれているような印象を受けた。

そんな話の流れで、人と一緒に生きること、生きていることみたいな話をしていて、“私は自分に執着がないんよね〜”と口をついつ出てきていた。

そうか、そういえば私って自分に執着がなくて、最近はとくに自分に興味がなくてごはんも雑に、暮らす環境や健康のことも雑に、でも湧き上がる感情は一人間としておもしろくて傍観していたなとか、傍観していたから寄り添うこともとくにはなかったなとか認識した。

そこからなぜ生きることにあきたにつながるのか、少し分かりにくいかもしれないけど、、、
人が好きで人と生きていきたいと思っているのはなぜかというと、すごい単純で、それは人に私自身が生かしてもらってるからだなと思った。

自分の人生を自分のためだけに使うことはあきたし、25年間生てきて自分のために十分時間を使ったり、経験させてもらって、きっといっぱい愛をもらってきた気がする。

だからこそ、自分を中心にして生きることにあきたのかなと思う。
これからしていく経験とか、生てることを人と一緒に、共有したり交換したり与えてもらったり送ったりして生きていくことにはあきてない気がする。

まとまらない、とりとめのない文章になったけど、生きることにあきたと思いつつべつに死にたいわけではないその心はどこにあるんやろと思ってたなぞがちょっと解けたような、そうでもないようなということに気づいた移動時間。

そのシェアハウスに住んでいて、一度一緒にプログラムのインターンをしてから姉妹のようにじゃれあって、あるときは学生生活を共にした友達のように軽く、またあるときは家族のように愛を注いでくれる方と
“まだまだいろんなことできるな、なにする?!”と言いあったように、そろそろプレッシャーがかかる年齢とか気にせず楽しみたい。

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