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マヤマは私かもしれない。

この物語の主人公マヤマは、1989年1月にピアノ留学のため当時の東ドイツに向かった。ちょうど日本では昭和が終わり平成という時代が始まった時。
「東側」の学生や留学生たちとの音楽を通しての切磋琢磨やつばぜり合い、そして絡み合う恋心、疑心。
やがてマヤマを含め登場人物は、ある人は積極的に、ある人は否応なく、歴史の転換期の激流に飲み込まれていく。

読み終えて、感じたこと。
マヤマは私かもしれない。

いや、それはおこがましい。
マヤマのように留学するほどピアノは弾けないし、ドイツ語だってチンプンカンプンだし。
平和ボケした甘ちゃんであるという意味で、「ドレスデンに住むたった一人の日本人」マヤマは、私であり、大多数の日本人そのものなのだろう、と思う。

あの日、ベルリンの壁に人々がよじ登った映像をリアルタイムで観て、自分が生きている間にこんなことが起こるなんて、と衝撃を受けた。

私が物心ついた時には、ドイツは西と東に分かれていた。
ベルリンの壁は存在していた。
米ソの対立という構図が長く続いていた時代だ。
ゴルバチョフ氏が出てきて、少しずつ世界は変わりつつある、そんな空気が醸し出されていた時ではあったけれど、まさかあんなに平和的に(と見えた)壁が崩れる日が来るなんて。

でもその裏側でどんなことが起こっていたか、ちゃんと調べようともしなかった。今回、この物語を読んで、改めて検索などして、資料を読んだ次第で。

フィクションではあるけれど、歴史的な背景は事実としてある。
「作り事」であればあるほど、事実は間違いなく描かれてないといけない。
ディテールがいい加減だと、全てが嘘っぽく感じてしまうものだ。
記録の残っていないことや突拍子もない設定なら、自由に書くこともできるだろうけれど、舞台はたった30年前。
この物語を書くのに、その当時のDDR(東ドイツ)の状況、市井の人の生活、どれだけ調べられたのだろう、と気が遠くなる。
作者の須賀しのぶさんは、それなりにお年を召した人かと思ったら、いやいや、私と同世代だった。それにも驚いた。

物語に戻ろう。
主人公のマヤマは、バブル期の日本を脱出して「平らかになるため」DDRに向かう。音楽的には「音の純化」を求めて。
文中に何度も「純化」というワードが登場する。
この言葉が出てくるたびに、私は背筋がぞわっとした。
ナチスの「民族純化」を思い起こさせたから。
音楽的な「音の純化」というのは、ヴァイオリン科の秀才イェンツのように「楽譜通りに、正確に、作曲家の意図を汲んで忠実に演奏する」「どこまでも研ぎ澄まされた雑味のない音を求める」ということになるのだろうか?
背が高く青い目で容姿端麗なイェンツ、その彼が、というのも暗示的だ。

そして、シュタージ、IM(密告者)。
ストーリーの中で重要なキーとなる。
まるで第二次世界大戦中の話のようだけれど、DDRではお互いを監視することで、「秩序を乱すもの」を排除していた。
ほんの30年前のことなのに、と恐ろしくなる。
でも、今の自粛下の日本を省みると、どうだろう。
地方在住の友人から「コロナに感染して、コロナでは亡くならなかったけれど、世間の声に押しつぶされて自死を選んだ人がいる」と聞いた。
実はあまり変わらないんじゃないか、という気持ちにもなる。

ここまで書いていると、どこまでも重く暗い物語のようなのだけれど、そればかりではない。バッハをはじめとするクラシックの名曲が綺羅星のごとく散りばめられている。
再読時には、ネットで検索した音楽を流しながら読んだのだけれど、パイプオルガン好きな私としてはバッハの《深き淵より、我、汝に呼ばわる》BWV686が特に心に響いた。
物語の中では、主人公が恋い焦がれるオルガニスト、クリスタが弾いている。

イェンツ、クリスタばかりでなく、暴君のようなハンガリー人留学生ラカトシュからも目が離せない。
良い人とか、悪い人とか、そんな簡単な判断は下せない。
登場人物全員が、自分の置かれた環境で必死に生きている、ということなのだ。
やはり日本人は甘ちゃんと言われても仕方ないのかもしれない。

最後に、気になって仕方がないのは、故ダイメル氏が作曲したヴァイオリンソナタがどんな曲なのか、ということと、この留学を終えたマヤマの音がどのように変化したか、ということだ。
マヤマはまだ音の純化を求めているだろうか。

*****

タイトルと表紙を見ただけなら、きっと手に取ることがなかった本。
note仲間のかなこさんが書いた感想文を読んで、読んでみようと思ったのだけれど、非常に読み応えがある一冊だった。
かなこさんと、noteの企画に感謝したい。


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