書くことの意味
友人との会話の中で「この数年間で、自分の中で変化はあるか」という問いが出た。
うーん、なんだろう…と考えつつ、はっきりとした答えはすぐに出てこない。ラフな会話だったため、相手の話を聞く中で、その話題は終わり、他の話題へ移ろっていった。
時間を置いて、ふとその問いが思い浮かび、また考えてみた。
ここ2~3年の変化。
コロナ前と今の変化。
内面が変わった。自分自身の見方が変わった。
自分を好きになった。
自分を受け入れられるようになった。
自分を否定して、責めてばかりいたところから、まあいいか、こんな自分もいいじゃんと思えるようになった。
そういう変化があったのは、noteを続けたことが思いのほか大きいのではと、書くことから少し遠ざかった今だからこそ、改めて思えている。
noteを続けてきてよかったと、これまで何度も思った。書くことで自分と対話でき、考えや感情の整理ができた。日常の何気ないことにも意識が向き、感じたり、受け取ったり、感謝したりできるようになった。
書くペースがぐんと落ちた。久しぶりに自分のページに行くと、自分が書いたものが別の人が書いたみたいに客観的に見えた。けれど読み返すと確かに、ああこんなこと思ったな、こんなこと感じたな、考えたなと思い出す。
そしていいな、と思う。自分の視点、感じ考えたこと。同じ事象でもどのように切り取るかは、人によって異なる。わたしの視点で切り取った文章。いいな、と自然に思える。
歩いていて、ふと立ち止まり後ろを振り返ったとき、歩いた箇所にしるしが見えたとしたら、たぶん安心する。確かにここを歩いてきたんだなとわかる感覚。
わたしは文章を通じて、わたし自身のことをいいなと思えている。
わたしはやっぱり、わたしのために書きたい、と思った。
誰かに読んでもらえて、ほめてもらえたり、共感をもらえたりすることはもちろん嬉しい。でも、他の誰でもない自分の今この瞬間の感性を、残せるときは残しておきたい。
未来の自分がもしそれで救われることがあるならば、文章としての完成度は高くなくても、意味のあることなのではないか。
これくらい続けたから、たくさん書いているから、もっと文章うまくならなきゃ、上達しないとおかしい。そんな考えがちらっと顔を覗かせ、書くことにブレーキをかけている部分もあった。もちろん上達したい気持ちが強ければそうすればいいし、逆にそれが書くことへのブレーキになるなら、いったん忘れて、自由に書いてみる。
毎日書くとも、1か月に1回書くとも、決めない。書きたいな、残しておきたいなと思ったら、なるべく書こう。
「自分を感性を残す」
書くことの意味を、改めて刻む。