聴き合えばみんな幸せになれる
話をじっくり聴いてもらえると、心が潤い、豊かになる。それはきっと「話を聴いてもらえた=自分の存在を肯定してもらえた」と感じるからだ。
では話を「聴く」側はどういった気持ちなんだろうか。
「聴く」について興味津々な今日この頃。
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先日、ある友人と話をしたときのこと。
もろもろの経緯があり、その友人とは2週間おきくらいに定期的に話すことにしている。電話で2時間くらい、毎回何かしらのテーマを設けて。普段の会話にはなかなか上がりにくいテーマで話せるので、私としてはとてもありがたく感じている。
この日のテーマは特に決めてなく、近況や雑談からスタート。最近「聴く」について興味があることもあり、今日は聴き役に徹しようと比較的意識して話を聴いてみた。途中から「なんか今日は自分ばっかり話してるね。聴く練習?」と気づかれてしまったのだけれど。まあ気にしない、気にしない。
聴き役に徹してみて、いくつか感じたことがある。
まず「聴く」というのは、かなり能動的な行為であること。大前提として相手の話に興味を寄せる必要があるし、そのうえで共感したり、共感しなくても「そう思ってるんだ」と受容したり、内容がつかめなかったら尋ねたり。さらに、相手が話したいであろう部分を探って問いを置いたり。
「傾聴」の言葉にもある通り、本当に身体ごと傾けるイメージ。気づけば少し、電話に向けて体が傾いてたかもしれない。受動的に聴いていては、真の「聴く」にはならない。
これまで聴いてるつもりで、案外自分の話をしてたのかもな、ということにも気がついた。
「私はさ…」という言葉が喉元から出そうになるとぐっとこらえて「それってこういうこと?」「ああ、確かにねぇ、そうだよね」と主導権を奪わず、相手のままにする。
自分の話をしないと決めると、相手が話してるときに自分の頭の中に「次、何言おうかな」が浮かばずに済む。ただ聴くことに集中できる。
集中して話を聴くと、疑問が自然と湧いてくる。「どういうこと?」「それはいつから?」「こういうイメージ?」と湧いた疑問を返していく。「ああ、それはね…」と相手も考えながら返してくる。返ってくる言葉をまたよく聴き、受け止めて、また返す。
これまで相手の話を無意識にジャッジしてたのかもしれない、ということにも気がついた。
自分の中にある良い悪い、正しい正しくないという価値観は自分にしか当てはまらないのに、「その考え方はどうなのか」「もっとこう考えればいいのに」と無意識に相手にも当てはめて、ジャッジしていた。それでは相手が本当に言わんとすることを理解できない。
ジャッジを捨てて、相手の側に立ち、同じ目線になってみる。そうすると、表面上の「わかる」ではなく、「そういうことか、なるほど、わかるなぁ」と少し深い「わかる」へ行きつく。(もちろんわからなくていい場合もあるけれど)
いろいろ気がついたことはあったけれど、聞き役に徹して一番驚いたのは、「じっくり話を聴いてもらった」ときと同じような満足感があったこと。あれ、今日は自分の話あまりしてないのにな。なぜか満たされた気持ちになってるぞ、と。
どうしてそうなったのかを考えてみると、聴いてもらうことと同じく、自分の存在が肯定されたように感じたからだと思った。
自分が聴くことによって相手が話す。初めはぎこちなかったのが、じっくりと聴き、うまく問いを置けるとどんどん話してくれる。「この人は今、話したいことを話せてるのかもしれない」「それを引き出すことに、少しは貢献できてるのかもしれない」、そう思えることが、自分の肯定にもつながっていたのだ。これは驚きだった。
私とその人で、一緒に対話をつくりあげる。
それができることはとても嬉しく、喜びで、心を満たす行為であると気がついたのは、大きな収穫だった。
もちろん自分が話したいときもある。聴いてもらえたら嬉しい。でも私が話を聴いたその人が、別の誰かの話を聴いてくれたなら。その別の誰かがまた別の誰かの話を…と、「聴く」の循環の出発点になれるのなら、もっともっと聴こう。
よい「聴く」は自分にとっても、相手にとっても心地いい。