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「あなたの話が聞きたいな」と言ってくれる人に出会う

母を亡くしたこと、うつになったこと。そういう過去のネガティブな経験について、noteに書き留めてきた。
書き出すことにはデトックス効果があったらしい。長い間、澱のように沈んでいたものがなくなって、過去の思い出が澄んだ色合いになったと感じている。

たまに振り返って今までの投稿を読むが、正直なところ大変恥ずかしい。ただの不幸自慢じゃないかと冷ややかな目で見て、削除しようとしたことが何度もある。
けれど、消してしまうと、きっとまた澱が溜まる。過去を見えるところに置いておくことが、私には必要なのだと直感している。

きっと私は、随分長い間、過去の辛い経験を吐き出したくてしょうがなかったのだ。それは、叫びたいほどの衝動だったと思う。
世間一般から見れば特別不幸な身の上でもない。誰かと共有することで役に立ちたいわけでもない。
にも関わらず、この欲求は何なのだろう。膨張した自己顕示欲?鬱屈した不満の現れ?理由は分からない。

過去の、実際に嫌な経験をしているその時には、私の話に耳を傾けてくれる人はひとりもいなかった。父や学級担任の先生など、聞いてあげたいと思っていてくれた人はいるだろう。けれど対面で話せる時間に限界があり、私が話したいタイミングで聞いてくれる相手ではなかった。

それに、当時の私は支援者の顔をした人に懐疑的だった。自らの経験からこうだと決めつけたり、分かったような態度をされるのは余計に傷つくからだ。
相手は私を本当に肯定しているか。私を評価的に見てはいないか。私にとって満足のいく聞き手かどうか。
そんな風に聞こうとする人に対して審判を下し、ほんの少しでも許せないことがあれば、決して話さない。そういう態度を取り続けていた。

本心では、嫌な体験をしたその時に、誰かに言いたかったんだろうか。
中一の私は「今日一人で住民票を取りに行ったんだけどさ、初めてなのに誰も教えてくれないし、分からなくて不安だったよ。」と。
中二の私は「今月の生理が始まったからナプキン代ちょうだいって言ったらさ、『金ばかり欲しがる』って言われた。なんか悲しかったよ。」と。
中三の私は「帰り道ちかんにあった。怖かったし、すごく恥ずかしかったし、めちゃくちゃ嫌な気分!!」と。
保健師の私は「訪問先に状態の悪化した高齢者さんがいて、救急搬送になった。どうなることかと緊張したよ。」と。
誰かに聞いて欲しかったんだろうか。

そのひとつひとつは小さくて、胸のうちにしまって隠すことができる程度の「嫌なこと」。暴力を受けたとか、物を盗られたとか、脅されたとか、そんな大層なことじゃない。
でも、きっと私は聞いてくれる存在が欲しかった。問題を解決してくれなくていい、ただ耳を傾けてくれる人。

当時、もし仮にそんな奇特な人がいて、「さぁ話して」と言われたとしても、「大丈夫」とだけ言い返して結局何も話さなかった可能性はある。そんな時にも「あなたの話が聞きたいな」「あなたが話してくれるのを待ってるよ」と言ってもらえたなら、実際に話せなくても話したのと同じくらい心丈夫だったのではないか。

noteに書くことは結果的に、過去の嫌な経験を自分から切り離すことになったようだ。そして、過去の自分が求めていた大人としてその文章を読み、自分を慰めているのだ。
つまり私は、今ようやく「まるごと全部、あなたの話を聞いているよ」と心開いて聞いてくれる大人に出会えたのだ。

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