萬葉集 大伴家持の残したヒント
大伴家持が越に赴任中に詠んだとされる歌で代表的なものがある。(本人の歌とはどうしても思えないのだが)
原文
物部乃 八十■(女+感)嬬等之 挹乱 寺井之於乃 堅香子之花
もののふの、八十(やそ)娘子(をとめ)らが、汲み乱(まが)ふ、寺井(てらゐ)の上の、堅香子(かたかご)の花
「もののふの」は八十(やそ)を導く枕詞。
「もののふ」は朝廷に仕える文武の官を意味しているそうだ。
この歌の題詞には、「「堅香子草の花を攀(よ)じ折る歌」」とある。
この歌は一般的に
沢山の少女たちが水を汲んでいるような姿で寺井の上に咲いている堅香子の花(のなんて可憐なことだろう)と解釈されている。
果たして本当にそうなのか?
物部、八十という言葉の解釈が全てを左右する。
物部は、物部氏。
先代旧事本記によれば、物部氏は高志の新川の出身である。
八十を沢山のという解釈も違う。
八十は八重に通じており、8を重ねる
つまり八卦であろう。
物部の八卦
嬬は、萬葉集では妻の意味に用いることが多いが、女巫を示すもの。
物部の八卦の女巫達と解釈できはしまいか
挹乱
挹は、酌み取ることをいう
これは漢詩に精通していないと表現できないのだが
「惟れ北に斗あり 以て酒漿を挹むべからず」
斗杓をもって酌む意味。
北の斗は、北斗七星であり四三(しそう)の星と呼ばれた。
北の斗は、人の死に関して司る星。
南の斗は、人の生に関して司る星。
四三は死相にも掛けられている表現。
嬬の需は身分の低い巫祝が雨乞をすること。
雨乞は涙の雨でもあったろう。
儒教は葬儀屋の側面が強い。
挹や嬬の字を使うことで、この歌には
「死」のイメージがつきまとう。
そして堅香子(かたかご)の花。
石の棺は堅いだろう。
その中に眠るように横たわる一輪の花。
愛した妻。
この歌の題詞は堅香子草の花を攀じ折る歌である。
攀じの表現は、高い所によじ登る事を意味するが
これは黄帝の昇天に掛けられた表現であり
人の死を悼む事を攀髯また攀号という。
妻の墓の前で膝を折り、跪く哀悼の歌であろう
おそらく古事記の歌の対となる歌である。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を
妻の墓が暴かれないように
何重にも垣根を作った
萬葉集に関して、大伴家持が編集に関わったともされるが、古事記、萬葉集の歌の出処は、大伴家持の一族が管理していたものと想像している。
大伴家持の父旅人、母丹比郎女。
叔母は大伴坂上郎女。
母は多治比嶋の娘とされる。
多治比嶋と言えば柿本人麻呂のパトロンと言われる。
大伴坂上郎女の母は石川内命婦。
石川内命婦と石川郎女が同一人物か定かではないが
この石川郎女は大津皇子や草壁皇子と関わりがあるようで、奈良時代の政治的な動きの渦の中、歌の世界もまたその渦に巻き込まれていった事は想像に難くない。
越という国の歴史的意義を見直さねばならない。
そして出雲とは何処かという誤認を明らかにしていかねばならない。