安曇野の八面大王と八方位神
北斗七星から、出雲について考察しました。
出雲とは、日本アルプスであり、神を迎えるのは長野大町であると。
長野安曇野に魏石鬼八面大王伝説があります。
英雄とも鬼とも伝えられる。
両面宿儺と同じ扱いですね。
八面大王という個人なのか、八人の人なのか不明ですが、個人的に、この八面大王とはサイコロの事を指していると考えている。
サイコロの歴史(wiki引用)
古代メソポタミアの遺跡からは、4面のサイコロが出土している
正六面体のサイコロの発祥地は古代インドとも古代エジプトとも言われる。現在と同じように1の裏が6であり、反対面を足すと7になるサイコロの最古のものは、紀元前8世紀頃のアッシリアの遺跡から発掘されたものである。最も原始的な形態の“サイコロ”は、宝貝や表裏を塗り分けた木の実などを投げ、それが表か裏かを見るというものである。このような投げ棒型のサイコロは古代インドで良く用いられ、近・現代においてもアメリカ・インディアンの文化などで使われている。しかしながら「サイコロ型」、つまり正六面体のサイコロも古代より出土しており、その成立は大変古いものであることが分かっている。
アジアでは、古いものではインダス文明のハラッパー遺跡などからも出土しており、中国やインドでも古くから存在していたことが知られる。これらの出土品は必ずしも立方体ではなかった。投げ棒型の他に、棒状四角柱で転がして使うもの、三角錐のものなどがあった。
こういった正六面体でないサイコロの中でも独特なのが、牛や羊などの距骨(後ろ足のくるぶしの骨)を用いるものである。距骨は一見すると六面体にも見えるが、どちらかといえばいびつな四角柱に近い形状であり、4種の出目を無作為に得ることができる(ただし、各面の確率は明らかに不均等である)。サイコロとして遊戯に用いる様子は古代ギリシア・ローマの彫刻や絵画にも描かれている。また、距骨は古代エジプトの副葬品にも見られ、他の形態と比べても古くから用いられていたことが分かる。紀元前のモンゴルの遺跡からも発見されており、地理的にも広く使われていた。このタイプのサイコロは、現在でもモンゴル語で「家畜のくるぶしの骨」を意味するシャガイ(en:shagai)という名前で使用されている。
距骨を使ったサイコロこそが現在のサイコロの起源であるとする説も唱えられている。少なくとも、以下のように複数の言語でサイコロは骨と関連付けられている。
英語では、古くは「動物の距骨」の意味の複数形「astragali」をサイコロの意でも用いていた。また現代英語でも「骨」の複数形「bones」をサイコロを指すスラングとして用いている。
中国語および日本語では「骰子」と表記するが、この「骰」は「投げる骨」の意の会意兼形声文字である。
正六面体のサイコロの発祥地は古代インドとも古代エジプトとも言われる。現在と同じように1の裏が6であり、反対面を足すと7になるサイコロの最古のものは、紀元前8世紀頃のアッシリアの遺跡から発掘されたものである
この他、古代ローマ時代には正二十面体のサイコロも作られており、現在イギリスの大英博物館に収蔵されている。ただし、これは各面に記号を刻んだものであり遊具ではなく占い専用の道具であった可能性が高い。
古代メソポタミアの遺跡からは、4面のサイコロが出土したが、当初はゲームのコマと考えられた。
古代ギリシアでは、3個、時に2個のサイコロを使った賭博が非常に盛んに行われており、特に上流階級の酒宴(シュンポシオン、ギリシア語:συμποσιον)の席では、欠かせないものとなっていた。またギリシア神話には、パラメーデースがサイコロを発明したとの記述がある。
日本へは、奈良時代に中国から伝来した。当初は、棒状のものと正六面体のものの両方が用いられていたようである。
サイコロの目の確率は人智では予想ができないものと考えられていたため、サイコロの動きを、神の意志と捉えて宗教儀式などに用いられる事があった。特にサイコロ発祥の地の一つとされているインドの神話を集録した『マハーバーラタ』にはサイコロ賭博の場面が多く登場する。これは、サイコロ賭博そのものが元々、物事の吉凶についてサイコロに託して占った結果を他者と比較した事に由来するからだとも言われている。
こうしてサイコロの歴史を見ると、サイコロは古代、正六面体とは限らないことがわかる。動物の距骨を使った場合、四面に近い。
サイコロ発祥の地とされるインドには、犀(サイ)が生息している。
ヒンドゥー教のシヴァを取り囲む八方位神。
つまり、犀の距骨を用いたサイコロを二つ用いて八方位を占う。
北斗七星の古名は、四三の星と言われ、サイコロの目から生じた。北斗七星は方角を示す重要な星。
神無月は北斗七星が隠れる(確認しづらくなる)10月のこと。この10月に神が集まるのが出雲。
サイコロと方位神と北斗七星、八面大王。
安曇野は道祖神の宝庫。道祖神は道案内の神であり塞、賽(サイコロ)の神。
塞の神と言う名は、黄泉平坂ー黄泉の国ー伊邪那美の埋葬地とも関係してくる。
八面大王の住居跡と言われている魏石鬼窟。有明山の麓にある6世紀後半に作られた円墳ードルメン式古墳(支石墓)
支石墓という形態がもっとも早く発祥したのは、おそらく西ヨーロッパだったと考えられるが世界各地に見られる。この魏石鬼窟は特異な形状の古墳であるため海運を行っていたものと関係するものであるとされている。
食文化からも読み解けそうだ。おやきは長野北西部が発祥地である。炭の中でじっくり焼く。はるか縄文時代から粉を練って食べていたらしい。米が育たなかったからと言われるが、むしろ粉食文化の人々が渡来してきていたからだと推測できる。
この粉食文化は世界的にみて、北、西の文化。東南アジア東アジアは粒色文化。おやきの製造方法は、非発酵の生地に具材を包み、乾いた熱で焼く。
包食文化+(焼く)粉食文化=中近東からインドの食文化
この安曇野に渡ってきた八面大王はそこからやってきたといえないだろうか。
有明山の山名の由来は、天照大神が岩戸にこもった際に、天手力男命が投げた岩戸が有明山に落ち止まり、それ以降天下が明るくなったという伝説からきている。
長野になぜ、戸隠神社があるのか。岩戸はどこからとんできたのか。
千曲川の名の由来は、高天原の神々が争った為、川が血で真っ赤になったからだと言う話もある。
高天原はどこにあった?
出雲はどこにあった?