夏がくる空の日曜日
ふと見上げたら夏空がひろがっていた。どうやら、いつの間にかまた、夏がきたみたいだ。
小学生のころ、よく空を見上げた。ただブランコに座ったまま、漕ぐわけでもなく、立ち上がるわけでもなく上空にひろがる一面の青を見上げた。それが好きだった。果てしなく続く群青色はいったいどこまで続いているのだろうと、ぼんやりと考えるのが好きだった。地平線とか水平線とか、ブラジルのはるか向こうとか、そういうことじゃなくて。その青がどれだけ遠くて、雄大で、僕にはなにもできなくて、ちっぽけで、手を伸ばしても雲ひとつ掴めなくて、だけど足掻いて足掻いて、必死に生きていかなきゃいけないんだってことを、幼心に感じていた。それを僕に教えてくれたのは、いつだって夏の空だった気がする。
はじめて小説を書いたのが、三年前のちょうど今ごろ。「恋するレオメータ」という作品で、はじめてにしてはなかなかよく書けたと思ったし、いま読み直しても意外とちゃんと書けている気がする。ビギナーズラックは侮れない。
まったく、三年も趣味が続くなんてすごいことだと思う。コロナ禍がなければ出会わなかった趣味なのだから、人生とはなにがあるか分からない。最近はやや仕事が忙しくて、昨年の秋以降はなにも書けていないけれど、この趣味は続けていきたい。
「恋するレオメータ」の次に書いた作品「この声でキミが唄え(「声キミ」と勝手に略している)」は個人的にはもっとお気に入りの作品だった。だから一昨年にはひいひい言いながら必死になって、途中何度も筆を折りながら、なんとか十万字を超える長編としてリライトした。ちゃんとリライトした作品はそれが最初で最後だし、長編だってチャレンジしたのはその作品だけ。そう思うと、僕にとって「声キミ」という作品は、やっぱり他の作品とは違う特別な存在なのだと思う。
……もう一度、書き直してみたいと思った。
いまなら、もっと丁寧に、上手に、分かりやすく、綺麗に、切実に、大切に、彼らの姿を描けるのじゃないかと思った。同じものを何度も何度も書き直すのは、前に進んでないようでもあるけれど、好きな作品なんだから仕方がない。
書き始めてもうすぐ三年。三年も経つのに、また同じ作品を書き直そうとしている。諦めが悪い。しつこいと登場人物たちに嫌われそうだ。でももう一度、彼らと一緒に同じ景色を見たい。
そんなことを考えた、夏がくる空の日曜日。
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