『生きる力を育てる教育』~遊びの効用と消費者となった子どもたち~
「遊び」とは外圧に適応するための重要な学習課題。
動物も人類も「遊び」を通して外部世界に適応する術を自然と身につけてきた。
近代思想に影響されていない民族(=集団)にとって「遊び」は、外圧に適応するための予行演習の一つで、「遊び」という概念すらなく、日々の生活の一部になっている。
しかし、現代の子どもたちの遊びとして代表されるDSやWii、PSPやPLAYSTATIONなどのゲーム機を、黙々とやっているのを見ると、そういったゲーム機をやって、外部世界に適応する術が身に付くのか 多様な人間関係の中で生きていく人格形成ができるのか と疑問を感じますよね
本来、子どもが成長する過程で必要な『遊び』とはどういったものなのでしょう
我々日本人が作り上げた『遊び』という概念は、『勉強』と対を成す概念で使われることも多く、マイナス的な意味合いをもった多様な概念として用いられることが多いと思います。遊びの効用(1)と、遊びの効用(2)を通して見てきた『遊び』とは、現代に置き換えるとどういったものを指すのか
今日は時代の変遷の中で「遊び」に対する意識構造がどのように変わっていったのか なぜ、変わっていったのか 見ていこうと思います。
■今の遊びと昔の遊び
今の遊び道具「おもちゃ」のほとんどは、“買うもの”となっています。そういった「おもちゃ」は自分で創意工夫しなくても簡単に遊ぶことができます。
それに対して昔ながらの「おもちゃ」は、そのほとんどが手作りでできるものでした。自分が遊ぶための道具は自分で作っていた時代では、どうしたら上手に楽しい「おもちゃ」を作れるのかを考えることで創造力を養い、立体的な構造力や段取りを考える力を育成していました。
<参考:昔のおもちゃアルバム>
また、道具を使わない「鬼ごっこ」や「花いちもんめ」などの遊びもいっぱいあり、年上の子が年下の子に教え、その中で協調性など身に着けていったようです。
<参考:昔のおもちゃアルバム>
お金を出せば遊ぶための道具は買える時代となった現代、子供たちは創意工夫をして遊びを創り出す必要がなく、“ただの消費者”になってしまっています。このことは、現代の様々な問題の要因になっているのかもしれません。
これは、『生産の場=(職場)』から切り離された『消費の場=(家庭)』という現代の社会構造による弊害がありそうです。
■生産の場と消費の場の分断
彼らは生まれながらにして「消費者」で、金を払いさえすれば何でも揃い、どんなサービスも受けられる便利な都市空間の中で成長して「自分を確立」する(実際には「自分を確立」なんてことは永遠に不可能なんだが、言葉の問題には一旦目をつぶるとしよう…)。
「消費生活の中で確立した自分」は数ある商品の中から、自分が価値を認める商品やサービスを選択しそれ相応の代金を払う。
「消費」という行為に必要なのは「金」だけであって、何かを生産しようと思ったら必ず必要になる、外圧に同化する能力、人の期待を読み取る能力、他人と話し合い協力する能力などは、一切求められることはない(だから4歳の子供にだって買い物はできる)。
こうして“選択し消費する主体”としての「自分(自我)」が肥大していくわけだ。
実際に、大人になって生産の現場に出たときには、そんなしょうもない「消費者としての自分」をいかに強固に確立していたとしても、何の役にも立たない(だから必然的に徹底的に叩かれることになり、それに耐えられずに3年以内に辞める新入社員が半分…というわけか?)。
こんな役に立たない「消費者としての自分」しか確立できないような状況に子供を置いていること自体が、すべての教育問題の根本的な原因である。
早急に、「生産者」としての体験を子供のうちから積ませることができるような「場」を創っていく必要がある(識者が言っているような、道徳教育とか規範教育だけではまったく答えになっていない)。例えば、農業や市場や工場などの現場で実際の生産活動に触れるような体験をさせることは、最低限必要だろう。
もっと言えば、与えられた「場」で消費活動しかできないようなカタワの存在ではなく、仲間と協力して自分たちで「場」や「課題」そのものを創っていく活動の中で子供たちに共認力・同化能力・前進力を磨いていってもらう、そのための環境を整える必要があるのではないだろうか。
『「消費者としての自分」っていったいナンボのものなんだろうか?(教育には「生産の場」が必要)』より引用
昔の村落共同体が解体される前は、『生産の場』と『消費の場』が共存する社会で、大人も子供も同じように外圧を受けていたし、こういう大人(男・女)になれば、みんなの役に立てるという“同化対象の姿”が身近にたくさんいました。
しかし、『生産の場』と『消費の場』が分断した現代社会では、大人たちが生産に従事しるシーンを見る機会は少なく、外で闘っている(生産している)父親の姿よりも、家庭でゴロゴロしている“一消費者の姿”しか見ることができなくなっています。
共同体の解体は子供に、生きるための外圧がかからない状況を作り、生産のための外圧に対する予行練習(遊び)の場を奪ってしまったのです。
■子どもたちにとって必要な遊びとは?
子どもたちは常に、より充足できる「遊び」を探索し、その先に自然の摂理を実感し、大人たちの仕事を真似ることで課題・役割・評価を共認する充足を見出します。子どもたちの主体的な「遊び」が、結果、学習効果をもたらすのだと思います。だから、かつての子供たちは働いている両親の背中を見ているだけで健全に 育っていったのでしょう。
子供たちが遊びを通じて健全に育っていくのには、大人たちがそれに必要な環境を提供すること。それは、『闘争の場=(職場)』と『生殖の場=(家庭)』が一体となった生産体の中で、自然圧力をはじめ様々な闘争圧力が働いく環境なのだと改めて実感します。
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