【旅レポ】山陰の「民藝」を探る旅(後編)
4日目
(湯町窯/小泉八雲記念館/Objects)
山陰の民藝を探る旅4日目。
この日まず最初に向かったのは
スリップウェアが特徴的な湯町窯。
湯町窯のやきものは
よく民芸館のショップなどにも並んでいて
早く来たくてうずうずしていた。
スリップウェアというのは、
器の表面に液状の粘土をかけて模様を描く
イギリスからやってきたデザインだ。
飴色や焦げ茶ベースの器に
白や焦げ茶の太くて滑らかな線が走る。
特徴的だけどくせのないデザインで、
存在感があるけど主張しすぎなくていい感じ。
せっかくならそれなりに存在感のあるものをと
やや大きめのスリップウェアの角皿を手に取って
お会計に進んだ。
湯町窯のおじいちゃんは器を丁寧に梱包すると
にっこり笑顔で「だんだんだんだん」
と言って器を渡してくれた。
友だちが「だんだん」の意味を
おじいちゃんに尋ねると、
よくぞ聞いてくれたといわんばかりに
「だんだんはねぇ」
とうれしそうに言って立ち上がり、
「はいじゃあそこの段々を上がって〜」
とぼくたちを誘導して、
棚に貼ってある出雲弁ポスターを指差した。
どうやら「だんだん」は「ありがとう」で、
それを2回繰り返して「だんだんだんだん」と言うと
「ありがとうございます」になるらしい。
「ぜひ広めてください」とおじいさん。
なんか響きがやさしくてほっこりするし、
ぜひ使いたいなと思った。
それからぼくたちは松江市街へと向かった。
車を停めてちらっと松江城を見物。
遠くから見える松江城もかっこよかったけど、
近くから見るとまた石垣の迫力がすごくて
圧倒された。
松江城公園を通り抜けて、
「小泉八雲記念館」を訪ねた。
小泉八雲はギリシャ生まれの小説作家で、
本名はラフカディオ・ハーンという。
バーナード・リーチというイギリスの陶芸家が
ラフカディオ・ハーンの本を読んで日本に興味を
持ったということを知ったのがきっかけで、
ぼくは小泉八雲の存在を知った。
記念館には小泉八雲の生涯を辿るように
彼の遺品や作品が展示されていた。
中には手書きの原稿や日記などもあって、
彼の生き方にリアルに触れることができた。
また特別展として、
小泉八雲を支えた妻の小泉セツのブースもあった。
著名人といって名を挙げるのは男性ばかりだけど、
奥さんも作品をつくった立派な一員であることを
感じることができてよかった。
それから高校のときの校長がおすすめしていた
セレクトショップ「Objects」に行った。
店内は落ち着いた大人な雰囲気。
置いてあるものがいいのはもちろんだけど、
見せ方の影響力のようなものも感じた。
欲しくなるものもいくつかあったけど、
なんとか財布の紐をきゅっと引き締めて店を出た。
現地の窯元を巡ってるぼくらからすると
ほんのちょっとだけなんだけど値段が高く感じる。
逆にほんのちょっと高くするだけで
よくやってるなぁとも思う。
ほんとにすきじゃないとできない仕事だろうな。
それから県立図書館で時間を潰して夕方、
弁当を片手に夕陽スポットに行った。
が、あいにく土砂降りに見舞われた。
しかし風に揺られながら滝のような雨が
湖面に打ちつける景色は
それはそれで神秘的だった。
5日目
(安部榮四郎記念館/福光焼/国造焼)
AM5:30
朝日を見たくてちょっと早起きした。
この日はまず、
人間国宝の手漉き和紙職人である
安倍榮四郎さんの記念館に行った。
手漉き和紙は高校の時にふたりとも
少し学んでいたから興味があった。
朝一番で記念館に入ると
スタッフさんがビデオを見せてくれた。
和紙の原料には主に
楮、三叉、雁皮などが使われるが、
ここ出雲では主に雁皮が使われる。
雁皮は育つのに時間がかかって
栽培には適さないから
自生している雁皮の皮をその場で剥いで収穫する。
それから収穫した雁皮は30年ほど寝かせることで、
より光沢がでるらしい。
また漉いた紙を板に貼り付けて乾燥させる時に
椿の葉で撫でることによって光沢が増し、
板から剥がしやすくなるという。
見えないところに
人の知恵や努力が詰まっていておもしろい。
そしてビデオの最後には、
「紙漉きが残るためには、原料、道具、
漉く人、使う人が必要だ」
と言っていた。
ひとつのものができるまでに
いろんな人や自然の営みが関わっている。
ということは他の工業製品にも言えるけど、
手工芸の場合はその繋がりをより深く感じられる
ということがいいところだなと思う。
出雲の雁皮紙は美しさと丈夫さが魅力で、
昔、それをみた柳宗悦は大絶賛したという。
それをきっかけに安倍榮四郎は民藝運動メンバーと
関わりをもつようになった。
そんなわけがあって展示コーナーには、
柳や河井寛次郎たちからの手紙があったり、
濱田庄司やバーナード・リーチの作品などが
展示されていたりしてとても見応えがあった。
それからぼくたちは出雲から倉吉まで車を走らせ
お昼ごはんに牛骨ラーメンを食べた。
それから近くに二十世紀梨記念館があったから
そこで友だちが梨ソフトを奢ってくれた。
それから「COCOROSTORE」でみつけた
倉吉の窯元を2つ巡った。
ひとつは福光焼で
もうひとつは国造焼。
どっちでもひとつずつ器をゲットした。
お金を使いすぎてるけどうれしかった。
軽トラの荷台にたくさん器を積み込んで
鳥取大学に通っている友だちのお家に行った。
次の日から4日間鳥取大学で行われる公開授業を
受ける予定だったからすごく助かった。
友だちのお家についたぼくたちは
買ってきた器たちをテーブルに並べて、
幸福感に浸りながらしばらく愛でた。
6〜9日目
(たくみ工藝店/たくみ割烹/鳥取大学/牛ノ戸焼)
楽しみにしていた鳥取大学の公開授業
『「民藝」という美学』の初日。
午前中は時間があったから
たくみ工藝店とたくみ割烹店へ行った。
たくみ工藝店は鳥取の民藝運動家である
吉田璋也が建てた日本最初の民藝店だ。
「民藝の木」といわれる図を見れば、
たくみ工藝店が民藝という言葉を広めるための
重要な役割を担っていたことがわかる。
たくみ工藝店がある通りは「民藝館通り」といい、鳥取民藝美術館とたくみ工藝店とたくみ割烹店が
隣り合わせに並んでいる。
たくみ工藝店には日本各地の日用の器たちが
たくさん取り揃えられていた。
ぼくがひとつの湯呑みに目が止まって悩んでいると友だちが運転のお礼にとプレゼントしてくれた。
そしてお昼にはたくみ割烹店に行った。
ここも吉田璋也が建てたところで、
地元の食材を活かした料理を
たくみセレクトの器に盛って提供してくれる。
味噌煮込みカレーとハヤシライス、
どっちも気になったから合掛けにした。
そしてついにお昼からは大学!
ぼくは初めての大学生活でわくわくした。
講義内容は民藝の基礎知識的なところから
鳥取の民藝運動の話やコミュニティデザインの話、
北欧の話など多岐にわたった。
中でも特に長い時間を割いて取り扱われた
吉田璋也の新作民藝運動の話の一部を
ここで少し取り上げようと思う。
吉田璋也は医師という職業を担いながら
鳥取で新作民藝運動を実践した人だ。
「新作民藝」というのは
今も残っている「残存民藝」に対し、
新たにデザインした民藝のこと。
吉田は民藝の美を現代の生活に取り入れようと、
今で言うプロデューサーみたいな立場で、
デザインやデザイン指導に励んだ。
鳥取の民藝の顔とも言える牛ノ戸焼の染分け皿も
吉田がデザインを指導したもの。
なんと吉田は自分が指導して試作した商品は
全て自分で買い取っていたという。
そしてその大量の器を売るために作ったのが
日本で最初の民藝店といわれる
「たくみ工藝店」ってわけだ。
口だけではなくちゃんと責任を持って
本気で美しいものをつくろうとする姿勢が
かっこいいなと思った。
それから鳥取民藝協会を立ち上げて
鳥取民藝美術館を設立した。
「買い物途中にふらっと寄れるような、
床の間にあるような美術館にしたい!」
というのが吉田の思いだった。
当時はまだ民藝という言葉に馴染みがないから
名前に美術館という言葉をいれたけど、
民藝の美しさは西洋美術の美しさとは一味違う。
西洋美術的に美しいと評価されるものは
格式高かったり高価な作品であることが多いけど、
民藝は庶民の日常の暮らしの中にある美しさ。
そこにある温かさや親しさのような美しさを
民藝館では味わってほしいのだ。
柳が日本民藝美術館をつくるときも、
朝鮮家具をモチーフに飾り棚をデザインするなど、
住空間を想起させるような工夫を施したという。
そう言われるとたしかに
民藝館には一般的な美術館とは違った
空間の心地よさのような美しさがあるなと
納得した。
また吉田はデザインに関する活動以外にも
様々な活動を実践していて、
中でも鳥取砂丘の保護活動の話は印象的だった。
当時、鳥取砂丘は開発により消失の危機にあった。
それに対し吉田は
「鳥取砂丘は鳥取の大切な風土であり景観だ!」
といって鳥取砂丘の保護活動に努めた。
そのために実際に何をしたのかというと、
バーナード・リーチや山下清といった
有名な画家を鳥取砂丘に招いて
絵を描かせたのだという。
そうすることでそれを新聞が取り上げ、
市民の理解を得ると同時に
こんないいとこがあるんだといろんな人に
知ってもらおうというユニークな作戦だ。
その結果、
無事に鳥取砂丘は国定公園に指定され、
今では鳥取の代表的な観光スポットになっている。
4日間の講義の最終日には、
牛ノ戸焼の窯元見学もあった。
立派な登り窯を見せてくれたけど、
もう最近は動かしてないという。
比較的それなりに大きい窯元さんだったけど、
鳥取民藝の代表的な窯元にしては
思ったより小規模な感じがした。
後継者も多くはないようだったけど、
それでもやきもの産業は
鳥取の工芸産業の中では主力の部類だ。
工芸“産業”であるためには
やはり使い手がいないと成り立たない。
でもそこで消費者のニーズに合わせすぎて
伝統を失うわけにもいかない。
どうかもっと、
民藝の美しさが求められる社会にしたい。
(やばなんかここめちゃデジャブ)
10日目
(立杭陶の郷/中ノ畑窯)
ついにこの長旅も最終日。
鳥取から大阪に戻る途中に丹波立杭焼をみようと
「立杭陶の郷」に立ち寄った。
大きな施設の中に何十もの丹波の窯元さんの
ショップが並んでいた。
その数と安さにはほんとに驚いた。
でもこんなにたくさんある割には、
買うか迷うほどのものはあまりなく、
なんだかしっくりこない。
いい形だなとか上手だなと思っても、
釉薬の質感が冷たい感じがしたり。
この旅で目が肥えちゃったのかなとか思いながら
別の建物に移動すると、
古丹波の展示館があった。
入ってみるとめっちゃいい。
「なんだ、できるじゃ〜ん♪」
と友だちもうれしそうだった。
消費者のニーズに合わせると
どうしても価格を押させるために
化学釉を使わざるを得ないから
あんな感じになるのかなとか思った。
それからまたしばらく車を走らせて
最後にもうひとつ、
大阪の山奥にある中ノ畑窯さんを訪ねた。
たくみ工藝店で友だちが気に入った器があって
裏を見たら「大阪」って書いてあったから
調べて問い合わせてみた。
そしたら
「自宅兼用の小さな工房でギャラリーはないけど
今ちょうど窯出しをした後だから見にきていいよ」
とのこと。
ラッキー!!
行ってみると小さな民家がぽつん。
奥さんが出てきて裏の窯の方へ案内してくれた。
するとそこには窯から出てきたばかりの作品が
たくさん並んでいた。
沖縄で修行をして独立したという奥さんの作品は、
確かにやちむんの面影を感じさせる。
もうすてきな器ばっかりで
見ているだけで幸せな気持ちになった。
そうしてゆっくり見てたら奥さんが
アイスティーとケーキを出してくれた。
かわいいお皿でケーキをいただきながら
いろいろ話を聞いた。
土は信楽と地元の土のブレンドで、
釉薬は手づくりの自然釉。
窯はコンパクトな薪窯で、
最近はあえて温度を上げすぎずに
ちょっと低めの温度でじっくり焼いているらしい。
そうすることで釉薬が完全に溶けきらず、
深みのあるしっとりとした質感に仕上がる。
ぼく好みのやつだ。
この日は奥さんしかいなかったけど、
いつもは夫婦ふたりで作陶してるらしい。
窯としての規模は小さいけど、
自分たちでせっせと田舎暮らしをしながら
薪割ったり釉薬も作ったりする。
その生活と仕事の境目がない感じが
いいな〜〜〜と思った。
「ちなみにここにある器って
今買うこともできますか?」
友だちが聞くと、
「いいですよ〜」って。
ぼくたちはよろこんで買った。
友だちは大きなお皿を1枚、
ぼけは小さなお皿を2枚買った。
そしたらなんと学割とか言って
たぶん半額かそれ以下くらいにしてくれた。
それからテストピースのかわいい壺も
ふたつもらっちゃって、
うれしくて胸がいっぱいになった。
「またおいで〜」と見送ってもらい、
いい旅の締めくくりになった。
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