見出し画像

【旅日記】紙の町を訪ねて思ったこと

全国手漉和紙用具製作技術保存会会長で手漉き和紙用具職人の井原圭子さんにお会いしたのは2年前のこと。
通っていた高校に紙漉きをするクラスがあって、和紙の用具の詳しい話を聞くために、クラスの旅行で井原さんを訪ねて四国に来たことがあった。

今回は、ぼくが個人的に四国に行く用事があったので、久しぶりに井原さんに会いに行った。
井原さんは、紙を漉くときに使う「漉き簀」という用具の職人さん。
紙漉き業界では、漉き簀職人さんのことを簀編みさんというらしい。
ちなみに、紙漉き職人さんのことは紙漉きさんという。
なんかいいね。

この細かいすだれのような「漉き簀」で紙を漉く

最近、井原さんは長年続けてきた簀編みの仕事を姪っ子さんにバトンタッチしたそう。
今回はその姪っ子さんの作業場を見せてもらえるということで、紙の町、四国中央市にやってきた。
川之江駅の近くで井原さんと待ち合わせ。
そこから歩いて作業場に向かう。
が、連絡の行き違いで不在。
とりあえず駅前の古い喫茶店でお茶でもしながら姪っ子さんの帰りを待つことに。

井原さんは歩きながら、
「このお花屋さんは私の同級生のお店なの」
「あれは駄菓子屋さんだけど人がいないの」
と、思い出深そうに町を案内してくれた。
井原さんはこの町で育ったんだって。
駅前の古い喫茶店も顔なじみのようで、
「今日は若いボーイフレンドが一緒だよ〜」
と言いながら店内に入る。

お代を箱に入れていくタイプの駄菓子屋さん

井原さんはもともと、母方の実家が長年簀編みをしていて、その家業を継ぐような形で簀編みを始めたらしい。
「私が簀編みの仕事を継ぐと決めたとき、祖母はすごく喜んでくれたの。今はこうして姪が簀編みをすると言ってくれて、あの頃の祖母と同じ様な気持ちなの。」
と話してくれた。

バトンをパスした今は、保存会の活動に専念しているようで、いろんな人たちを相手に手漉き和紙用具の説明やレクチャーをしているそうだ。
手漉き和紙というと、やはり「紙漉き」という部分にスポットが当たりやすいけど、実際は他にもいろいろな工程があって一枚の紙になる。
そこで使われる専用の道具を作る職人さんというのもまた、手漉き和紙という伝統工芸産業を支える重要な柱のひとつなのだ。

ホットコーヒーをいただきながら

しかし手漉き和紙産業の現状は深刻なもので、現在、現役の簀編みさんは全国に8人しかいない。
手漉き和紙産業を支える重要な柱にしては、あまりにも細すぎるような印象を持つ。
だが実際のところはその上に乗っている手漉き和紙産業自体が小さくなっているので、需要と供給の割合を考えるとそれくらいで事足りているそうだ。

そんな話をしているうちに姪っ子さんが戻ってきたので、喫茶店を後にして作業場へと向った。
アパートの一室が簀編み専用の作業場になっていて、大きな編み台には制作途中の簀がかけられていた。

編み台と制作途中の漉き簀

細かい!きれい!!!
高校の時には試行錯誤しながらこれを自分たちで真似していたけど、レベチ。
だけどぼくが「きれいですねー!」と言うと
「いや、これはきれいじゃないよ。中国製のものを修理してるんだけど、使われてるヒゴの質もよくないし、編み方が雑なの。」
と。
びっくりした。

姪っ子さんが編むところを見せてくれた。
重りのついた糸をカランコロンと交互に投げるように編んでいく。
ぼくも少しさせてもらった。
見ていると簡単そうだけど、そんなに思ったようにはいかない。
いろいろコツを教えてもらった。

いつもは電気を消してカーテンを閉めて部屋を暗くして、編み台の上にあるスタンドライトだけをつけて編む。
そうすることで、ヒゴの凸凹が影になってわかるのだ。
すごく繊細で手のかかる仕事だった。

見学をし終わった後は、3人でランチに行った。
寿司ランチ。
炙り寿司ランチにした。
いつも100円寿司ばっかりだからか、うますぎてたまげた。
ネタも大きくて、しっかり炙ってあって、脂が乗ってて最高だった。

おいしかった

ごはんを食べたら井原さんとはお別れ。
ぼくは車に乗って更に西を目指して走り出す。
周りを見渡すと、道の両脇にはエリエールや大王製紙といった大手の製紙企業のオフィスや工場が建ち並んでいた。
遠く海の方には、いくつもの大きな煙突から煙がもくもくと出ているのが見える。
四国中央市のあるこの地域一帯は今では日本トップクラスの製紙産業地区だ。

だけどそんなこの町も、かつては手漉き和紙産業が盛んだった。
朝は家の前の通りを人々が下駄を鳴らして紙漉きに行くような町だったそう。
「自分のおばあさんが簀編みさんとかいうのも、そんなに珍しいことではなかったのよ。」
と井原さんはいっていた。
紙漉きが、この町の人々の暮らしの一部であったことが想像できた。

後に西洋から機械漉きの技術が入ってきて、紙の大量生産が可能になった。
手漉き和紙よりも低コストで効率よく作ることのできる洋紙は販売価格も安く、あっという間に紙の主流になった。
生活様式の変化による和紙の需要の低下に伴い、手漉きの工場はみるみるとその数を減らしていった。

きっとここ数十年のこの辺りの町並みや人々の暮らしの変貌というのは、近代資本主義社会の時代の変化がよく現れているんだろうなと思った。
この町にはなんの思い入れもないぼくだけど、どこか少しさみしいようなもどかしいような気持ちになった。

四国中央市から西へ車を走らせるとこ1時間半。
愛媛県西条市にやってきた。
この町に、2年前に学校で四国に来たときに行った手漉き和紙工房がある。
通り道だし、せっかくだからもう一度見に行こうと思った。

工房では紙漉きさんが檀紙を作っていた。
だんだんの模様が入っていている紙(一番上の写真のやつ)。
どうやってこんな模様を入れるのかと思っていたら、漉いて重ねた3枚の紙をぴろーっとめくってしわ寄せて作っていた。
びっくり。

一瞬だから手品みたい

奥さんがお家に入れてお茶を出してくれた。
肉まんもいただいた。
奥さんはこれまでの紙と歩んできた人生の話をしてくれた。
もともとはみんな手漉きだったけど、途中から周りの人たちはどんどん機械漉きになっていったんだって。

「そうしないと食っていけんかったからな」
その言葉が印象的だった。
手漉きが機械漉きに変わっていくのは、そっちの方が楽だし収入がいいというのが大きな理由だと思う。
だけどそれは手漉きをしてた人がお金に目がくらんだとかいう個人の話ではない。
そうしないと食っていけない社会があった。
「ほんとはできるなら手漉きをしたかったけど、機械漉きにせざるを得なかった」という状況もありえるということを、理解した上で考えていく必要があるなと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?