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【エッセイ】当たり前なことなんて何もない

(1348文字)

昨日は映画とドラマを一本ずつ観た。
映画のことはまた別に書くとして、ドラマは昨夜放送された「終わりに見た街」。
大泉洋主演、原作は山田太一。脚本は宮藤官九郎。
あまり映画やドラマを批判したくないんだけど、これはガッカリだった。

ボクはもう随分前に原作を読んでいて、それが強く心に残っている。
昭和十九年にタイムスリップしてしまった家族。
全体主義に染まっていく子供たち。
そして、核らしき爆弾が落ちて、気がつくとそれは現代での出来事だったというラスト。
気をつけていないと、あの頃のように全体主義に飲み込まれて、気がつけば戦争になっている可能性がある。
そういうメッセージが込められた物語だとボクは解釈していた。
ところがドラマにはそのメッセージを薄れさせるようなSF的要素だったり、謎のテレビプロデューサーなどの登場人物が盛り込まれている。
ちょっとだけタイムスリップして来たユーチューバーが出て来たり。そんな人でも時代に飲み込まれていくと言いたかったのだとしても中途半端。

何これ?何が言いたかったワケ?

原作を知らずに観たら、そう思うのが当たり前だと思う。

でも今日書きたいのはそのことではなくて、見終わった後のこと。

離れて暮らしている妻も観ているのを知っていたのでLINEをしてみた。
「これで終わりなの?最後はわけわかんなかった」
とのこと。そりゃそうだよね。ということで、原作に込められた、ボクなりの解釈を説明した。
「でもこういうことが言いたかったのかも」
「だとしても中途半端だよね」
というようにLINEを交わす。
こういうテーマの映画なので、話すにはボクの人間や今の日本に対する考え方が強く出てくる。それでもすんなりと会話が進んだのは、やっぱり長年一緒に暮らして「言語が統一されている」からだと感じた。

そのあとは映画の話に。
それは妻も観ていたので、あれこれと感想を言い合った。この映画のことはまた別に書きたい。

そして気がつくと1時間半が過ぎていて、さすがに「おやすみ」と送って布団に入った。

一緒に暮らしていたら、一緒にドラマを観て、そのままあれこれと話し合ったと思う。でもそれは当たり前過ぎて、そうした会話の大切さを頭で分かっていながらも、実感としては分かっていなかったと思う。
でも離れて暮らしている今は、それを実感している。
お互いに同じものを目にして、どう捉えて、どう考えたのか。
それを話し合うということは、お互いの理解を深めて距離を縮めること。
一緒に住んで、物理的に近くにいると、当たり前のように心の距離も近くにあると思ってしまう。
でもそんなことはなくて、当たり前と思ったところから相手が見えなくなっていくのは、今まで嫌というほど感じてきた。

今は、事務的な内容の他に、用事がなくても面白い動画を見つけたら送ってみたり、妻からも夕焼けの写真がLINEで送られて来たりする。
そして月に一度くらいの割合で会っている。
離れて暮らすこの時間が、これからの人生に重要な気がしている。

当たり前なことなんて何もないし、そう思ったところで本質は見えなくなっていく。それをまた改めて感じた夜だった。

ちなみに、前述のドラマの原作にも、そうしたメッセージは込められていたと思う。
今の平和な日本が当たり前と思ったら、何も見えなくなるよと。


トップにnoouchiさんのイラストを使わせていただきました。
ありがとうございました。
どことなく懐かしいタッチで好きです。

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