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創作全般の覚え書き

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自分の、あるいは社会の創作の話題で反応してしまったことの覚え書き
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#アート

「新しさ・伝統・民藝」などの覚え書き

新しさについて 何かの極点に達したものは、両極端の性質を同時に持つ気がします。 円を描くのに、描き始めから描き終わりで線が接すると、その点は、描き始めの地点であり、描き終わりの地点でもあるような感じ・・・ * * * * * * * *  伝統の根幹部分 「伝統」には現実的な実質があります・・・それは伝説や中身の無い権威ではなく、現実です。 だから、現代生活にも機能し続けるわけです。 とはいえ、闇雲に「昔の人はみんな凄かった」と単純に把握するのは良くないと私は考

手作りという魔法は無い

私は、現代において「手で作る必然のあるもの」によって「いわゆる手工芸品」では到達出来ない創作性を「現出」させ、美をたたえているものを作りたいと思っています。 昔から、最上品はそうでした。 それは手作りだから良いとかそういうことは関係なく、良いのです。 昔の工芸品の素晴らしいものを、天然素材だから、手作りだから、苦労して作ったから、技術が素晴らしいからとか、そういう面で感動する人はいないと思います。 それは理由なく人々の心を打つものだから、飽きられることもなく長年ずっと

工芸品と芸術品の性質の違い

私は普段、このnoteに書いている通り、全ての人為と人造物は等価なので、例えば工芸品と芸術品の「上下は無い」としております。 工芸品の創作的に進化した最終形態が芸術品みたいに言われますが、そういう事実は無いという立場です。 「この蒔絵は工芸品を超越して最早芸術品である」 みたいな言い方ですね。そんな事あるかーい!笑 工芸品と芸術作品は、人造物の分野の違いに過ぎません。 しかし、それぞれ性質が違うところがいくつかあると思っております。 例えば、工芸品と芸術品とでは、

描きたいものは無いけども絵を描く事は好きという人

は、意外に多いです。 もちろん、これは工芸系でも当てはまります・・・あ、というか、大人になって収入のために仕事をする場合は、全てに当てはまるか・・・と書いていて気づきました。出だしからイキナリかい!笑 何にしても、職業にする場合は、どの分野でも趣味と違って単に好きなだけでは通用しませんから「それほど好きでも無い事だけど、他の人には耐えられない事が耐えられる」とか「それほど好きでも無いけど、それほど苦労無く他人よりも出来てしまう事」を選択するのが良いですね。 世の中、自分

「語りの池」に浮かぶ作品

現代美術の作品は、作品の周辺と作品成立の文脈を詳細に語り、作品自体がその「語りの池」に浮かんでいる 伝統工芸は、作品の本質とは関係の無い、素材や技巧などのスペックや、家柄や権威の事ばかりを語る。作品はその「語りの池」に浮かんでいる

人は自分のためだけにやり切る事は出来ないもの・・・

工芸品に限らず、創作物全体に対して、個人的に思う事ですが 作物の底に「自分以外の存在に対する祈り」のあるものが良いです それは大それたものではなく、高尚なものでもなく、素朴で素直で健康的な・・・人間が自然に持つタイプのもの 人の存在、人の生活、自然・・・自分だけではない他者への祈り 作る人の祈り、使う人の祈り、そのどちらも受け止める事が出来る「どちらの祈りも受け止める存在」であるものが良いなあと、私は特に最近感じます。不景気やコロナ、戦争・・・のせいで余計にそう感じる

民藝論と仏教的思想と美、矛盾と実績

柳宗悦は、当時は審美的な価値が無いとされた雑器などに「民藝」という概念を創出し、その美を世に解き放った大功労者です。 しかし、柳の民藝論や実際の活動や晩年の著作などを観ると、私は民藝論に矛盾を感じます。 晩年の名著とされている「美の法門」を読むと「美醜の区別を超越したところに芸術というものがある」としていますが、柳の活動を検証したり著作を読むと実際には理論的にも実質的にも「民藝美が至高」となっています。 もちろん、単なる個人の嗜好として民藝こそ至高、とするのは問題無いと

美に特性は無い

私は美を以下のように把握しております。 これはいわゆる学術的な美学に依存しない美の把握方法です。これは誰かの考えの踏襲ではなく、自分の目と精神による観察+この考えによる長年の行動+検証によって導かれたものですので、創作関係だけではなく、日常生活のなかで「実質的に機能する美の把握方法」と思っております。 ここで言う美は、きれいとか、美醜面の美しさ、というものではありません。芸術界隈の特別な何かではなく、美は実はどこにでもあります。自然のなかには必ず、人為・人造物のなかには時

技法や方式自体を目的化・価値化しても創作的な質が保証されるとは限りませんよね

伝統に関わる何かしらの物や事、そして地域の特産品などの品質を一定以上に保ち続けるため、何かしらの決まりをつくり、それに正しく従ったものだけを正規のものとして認定する、というのは良く行われる事です。 その仕組み自体は良いものなのですが・・・ しかし、その決まりのなかの何かしらの技法や方式・・・その決められた範囲で数種の選択肢が許されているのに、一部だけを取り上げ「これだけがホンモノ」とし「それを行っているウチだけがホンモノで他はニセモノ」と、一方的に自分を上げ、他を下げる人

強みでは無いところを押し出しても・・・

今回は、キモノの良さを伝えるのは難しいですな、という話題であります。 例えば キモノ姿でスポーツをして動画を撮り「キモノでもこんなに動けるよ!みんなも気軽にキモノを着ようよ!」という主張の動画を観ると、わたくし、その人のキモノ愛には心打たれるも、 「いや、スポーツするには、動きやすい衣類の方がいいと思うぞ。洋服でもより動きやすいモノをチョイスするんだから。ついでに言うと履き物もそうだな。安全面からいってもそうだろ?」 と、単純に思うのであります。 「キモノでも工夫次

わたくし、人為・人造物にホンモノもニセモノも無いと考えます

良く、ホンモノ・ニセモノの議論が起こりますが、私は表題に書いたように、本来的には人為・人造物にホンモノもニセモノも無いのではないかと思っております。 私のメインの生息地域である和装業界・・・そして、その他伝統工芸系などでは特にそういう話題が出ますが、ではその「ホンモノの定義」って何よ?となると、殆どが曖昧なものしか無いのです。 古今東西、人為・人造物はどんなものであっても、時代が変わり社会の人々の価値観が変われば、そのモノ自体の存在意義が変わってしまいます。 それに、歴

現場の勢いが作物に乗る

先日、オーストリアでピアノの調律師をしている日本人の方の番組をYou Tubeで大変興味深く拝見しました。 内容は、ぜひ上記のYou Tubeをご覧になっていただいて・・・ ザックリ説明しますと、 調律師の方が、普通一般で言うキチンと調律/調整を行ったピアノに対してピアニストが「こんなにバランスがとれてキレイな音が出るピアノでは私は美しい音楽を作れない」と文句を言って来た、戸惑った・・・というようなものです。三種類の話が語られています。 ピアニストのグレン・グールドが

いわゆるアートが邪魔な場合がありますね

去年、2020年だったか?明治神宮に久しぶりにまいりましたら「明治神宮鎮座百年祭」という事で、現代彫刻がいくつか飾ってあり、本殿の門にまでそのようなものが飾ってありましたが、私は、イベントだからといって特にそのようなものを設置する必然を感じませんでした。 それなら、雅楽を生で流していただいた方が、ずっとふさわしいと思いました。その方が、明治神宮の木々や土や空に溶け込み、その場にいる人たちが神宮の森と一体になれ、明治神宮自体を体と心に感じられると思うのです。実際、生演奏なのか

民藝的な美を産み出すのは大変難しい

民藝的審美性、その美というのは 職人が、そしてその地域が、美や創作など意識する事なく、日々の生業として当たり前にやっている事から自然発生的に産まれる美 ・・・なわけで、そういう意味では、民藝運動の人々が主張する通り「天才が作り出す美ではなく、凡人が作り出す美というものがある」わけですが、しかしそれはむしろ、ものづくりとしては、むづかしいです。かなり。 「意図すると、それを得られない問題」 が出てくるからです。 「それを知らなかったから自然に出来ていた」事が「意識した