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創作全般の覚え書き

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自分の、あるいは社会の創作の話題で反応してしまったことの覚え書き
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2018年7月の記事一覧

伝統の骨格が無いと制作物が観念的になってどうどう巡りになり勝ち

古いものを否定して新しいものを表現するぜ! というのはどこの文化にもありますが、なんだかんだいって、西洋系は日本よりも伝統が身近にあるので「実際に古典を否定して新しいことをしている=結局古典がベースになる」という感じに観えます。 だから、一見、破壊的なものでも、スジが通っているものが多かったり。 一見「何やってんだ?この人達。。。」という意味不明な作品でも、背景にある理論的な部分、文脈などを知ると、一見デタラメに観えるものが実はちゃんとした真面目な表現であることを知った

必要な生命感のノイズ

昔の工芸品や、何かしらの創作品には、生命感を表すノイズ、ざわめきがありますね。 それはとても魅力的です。 それを、昔使われていた天然素材による手間のかかる制作によって、自然に付加されてしまう雑味やムラ、精製技術の不備によってどうしても混入してしまう夾雑物に過ぎない、と言ってしまうのは、少し乱暴だと思います。 その、制作過程で、成果物である製品に自然に乗る「ゆらぎ」「ざわめき」は「生命感」を表していると思うのです。 昔はこのような味わいは大変に珍重されたわけですが。。。

制作において制作者のみ理解出来るような繊細なことの殆どは相手に伝達されない

文様染や、織物などで、また、料理などで良くある失敗は 「作り手視点の、こだわりの繊細な表現を、その作品の個性・主題としてしまうと、観る人にそれは殆ど伝達されていない」 ということです。 例えば、文様染の友禅染で、制作者自身と、その工房の人なら分かるような、ちょっとした違いを喜び、それを作品化してしまったものは、展示会でそれを観る人には分かりません。 しかし、作り手は自分の制作の過程を体験しているので、それが観えているわけです。 また、作り手は、受け手よりもずっと自分

売れ線なんて狙って出来るもんじゃない

(画像・染額「月の舟に恵の雨が降る」) 技術や知識やキャリアのある人などは「あー、あの手の売れ線ね」なんて、まるで自分の技術や知識があれば、あんなものは簡単だ、オレは売れ線を出来るけど、アーティストとしての矜持でやらないだけ、なんて世間で売れているものなどをクサしますが、実際にはこれはそんな簡単に行かないんですよね。 例えば、売れっ子のプロジェクトに、技術や知識や経験がある人が参加したとしたら「こんなもん、チョロい」と思ったりします。 自分ならもっと質の良いもので、

正確にあいまいであること

白か黒かハッキリしろ! ということが良く言われますが、それは一般的には覚悟のことであったり「それをやるのかやらないのか」という二択だったりする意味ですが、実生活ではそんな簡単に白黒は決められず、また決めるべきではなく「実に様々な階調のグレー」が存在しますよね。 もちろん、作品づくりにおいても同じです。 「白か黒かハッキリ出来ること」は精神的に強い人がやること、と思われ勝ちですが、しかし、実際には精神的体力のない人間や、グレーの階調を判別する鑑識眼の無い人間は、その覚悟や

色を染める際に意識するべきこと

染め物で、何か色を染めるに際して・・・ 薄い色を染めるにあたっては「ただ色が薄い」色ではダメなのです。 色をつくることと、料理の味を決めることは良く似ているので、料理の味で例えると・・・ 薄い色の場合、例えば、薄味のお吸い物で、塩味は薄めの味わいだけども、出汁の味わいがしっかり深いような、そういう薄色にしなければダメなのです。 (もちろん出汁を濃くすれば良い、という意味ではなく、出汁と調味料と具材のバランスが取れていなければなりません) 例えば、草木染で染める場合に

手慣れ感のある仕事にしないために苦労する

職人仕事を長年やっていると、体が慣れて来るので、自然にうまくなって来ます。 (が、それには限度があり、加齢による劣化は当然あります。スポーツ選手ほど急激に表れませんが、同じく肉体をつかう仕事の特性から逃れることは出来ません) が、この「うまくなる」のは必ずしも良い面だけではなく、良い場合と悪い場合があります。 良くある「ウマイ仕事だけども手慣れ感があるいやらしい仕事」。。これはとても不快感のあるものです。 そういうのは、極上品にはなれません。 B級の上位ぐらいまでです