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家族にSNSを見られて
ちょっと困ったことになった。
家族にSNSを見られている。
勿論これは自ら招いた事態だ。
先日短歌と俳句のオリジナル同人誌を作った。
知人に配ったりイベントで販売したりしている。
本にはSNSのURL存在も記載してあるから、アクセスすれば誰でも見ることができる。
家族に同人誌を渡すかは最後まで迷った。
渡せば色々と面倒なことが起きるだろうと予想はついていた。
一方で、同人誌を渡すことで体調を崩しがちな地元の祖母を元気付けたいという思いもあった。
結局のところ、後者の気持ちの方が勝ち、実家の本棚にそっと忍ばせてくるという、ちょっと子供じみたことをしたのだった。
家族から「SNSをやっている」と聞かされたときからなんとなく予感はあった。
ネットが発達した時代だからおかしいことではない。
ただ、そのにおわせるような発言に緊張感を覚えた。
気にしていないつもりだったのだが。
恐らくこのnoteに掲載した文章も読まれている。
しきりに過去について謝られるからだ。
私の文章がそのように仕向けるだけのエネルギーを持っているということなのかもしれないが、これを望んでいたわけではないという気持ちが頭をもたげた。
そろそろ私の家族批判ネタも潮時だ。
と言いつつ、こんな文章を書いているのだけれど。
遂に、Twitterやnoteで告知している活動について「あれはうまくいってる?」と聞かれた。
その場ではなんとなく返事をしたが、後になって色々と考え込んでしまった。
私は何に不快感を覚えているのだろう。
何が嫌なのだろう。
今後どうしたいのだろう。
監視。
不快感の根本はそこにあると思う。
創作活動を公表した以上、見てもらっても構わないのだが、近しい家族から「見ている」アピールをされるのは正直しんどい。検閲でもされているかのようだ。
見るならこっそり見てほしい。
そして今回のことで謝らないでほしい。謝られたらまたざわめく。
そもそも家族に創作活動のことを明かした時点でこうなることは分かっていた。
比較するのはおこがましいが、顔出しをしている作家さんも家族に創作物を読まれているはずだ。
何ものかを表現するということは、詮索好きの家族を含め、誰からも作品を読まれてしまうということ。
家族に同人誌を直接手渡しできなかったことといい、私は表現することに対して覚悟がないのかもしれない。
結局家族に見られても良いものしか作れない、作ろうとしないのかもしれないと。
家族と同じ表現ジャンルにいることについても悩ましく思った。
上記にもあるように、祖母や母も歩んできた道に娘もまた足を踏み入れている訳だから、家族が私の活動に興味を持つのは当然といってもいい。
しかしここへきて、表現方法として短歌や俳句を選んでしまったことに、結局家族の翼の下から抜け出せない自分の姿を見てしまい、やるせなくなった。
最近、次第に故郷を受け入れつつも、様々なしがらみから飛び立つことを創作の軸にしているつもりだったが、まだ無理なのだろうか。
母は私の自由の象徴であったブリーチのハイライトヘアを見て「(グレイヘアの)私と同じね」と言ってのけた。
数日間、SNSからは離れようかと思う。
短歌と俳句からも。
そうしないと表現が嫌いになってしまいそうだ。
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