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皇帝エフゲニィ プルシェンコ誕生の瞬間、St Petersburg 300

このYou Tube動画は2003年、サンクト・ペテルブルク建設300周年の年にロシアのサンクト・ペテルブルクで開催された世界フィギュアスケートのグランプリファイナル(GPファイナアル)にてエフゲニー・プルシェンコが優勝した演技。St Petersberg 300ー別名Criminal St Petersburgー作曲、Igor Kornelyukことサンクト・ペテルブルクのリムスキーコルサコフ音楽院卒業の作曲家、振付はマリインスキー劇場の元バレエダンサーかつオペラやバレエも振り付けるキリル・シモノフ、コーチはアレクセイ・ミーシンの競技会での優勝演技)

クラシック音楽、オペラ、バレエ、舞台芸術、フィギュアスケートオタク歴40年以上の私において、また同時にエフゲニー・プルシェンコファンでもある。サンクト・ペテルブルクの建設300周年(2003年)の2月28日から、3月2日において、まさにサンクト・ペテルブルクにて開催された国際フィギュアスケート連盟主催のグランプリチャンピョンを決めるファイナルで我が尊敬するロシアの男子シングルフィギュアスケーターのエフゲニー・プルシェンコ様が20歳において、「まさにサンクト・ペテルブルクのツァー(ロシア皇帝)になった」ようなこの素晴らしい圧感の演技!!何故か、見逃していたとはつい数日前まで知らなかった。まぁ、2003年は私も全米講演ツアーに日米協会から選ばれて行ったり、また、フランスの政府からの招聘で、国立高等防衛研究所(パリ)に行ったりと忙しかったからかもしれない。しかしながら、この凄い演技を見逃していたとは!!!

この演技を数日前に発見し、もう、それ以来、元々サンクト・ペテルブルク派のクラシック音楽、オペラ(ちなみに私が多々世界中で観たオペラの中で最も涙が出たほど感動したのも、現在のマリインスキー劇場がゲルギエフ指揮で東京で公演したムゾルグフスキー作曲の「ボリス・ゴドノフ」であったりする)、文学、舞台芸術、バレエ(アンナ・パブロア、マイリンスキー劇場のワガノワアカデミー)フィギュアスケートの伝統ーペアでいえばエレーナ・べレズナーヤ&アントン・シハルナーゼのような優雅で技術的にも高く、またモスクワのように政治都市で、ボリショイ(大きな)バレエ的な感じではない。実に繊細で優美なる演技、ロマノフ王朝、多くの作曲家、作家、またエルミタージュ美術館や宮殿、そして、ドストエフスキーや、リムスキー・コルサコフなどに加えて、プルシェンコの個人の人生、サンクト・ペテルブルクの歩んだ、300年間の歴史などなど、実に「重層的構想」の凄さに圧倒されまくりなのである。

これぞ、まさにプルシェンコが、ロマノフ王朝崩壊後、あたかもロシアの「皇帝」エフゲニー・オネーギンならぬエフゲニー・プルシェンコになった日である。極東のハバロフスクにウクライナ系の父とヴォルゴグラード出身の母の元に生まれ、幼い頃から肺炎にかかり、トローリーバスにおいても二つほどの駅で体が弱ってしまう故に始めたフィギュアスケート。

それでもエフゲニーの身体が極東シベリアの厳しい気候に耐えられなかったほど脆弱だったので、一家はヴォルゴグラードに引っ越すことに。しかし、ソ連の崩壊後、ヴォルゴグラードのスケートリンクの閉鎖に伴い11歳で汽車で2泊半もかかるサンクト・ペテルブルクに一人で、共同住宅(売春婦やアルコール中毒者が多くいた、台所、水道、浴場も共同のダニやネズミが頻繁に出ていたKomunalka)で暮らすことになり、後に母親が一緒に住むことになるものの、二人して毎日泣いて暮らし、食べるものもなく、道でガラス瓶などを母とプルシェンコが拾ってそれを売りながら現金に変えていた。

なんだか、ドストエフスキーの「罪と罰」でいえば、ロシア正教の分離派(隔絶された)主人公、ラスコーリニコフ(分離派ラスコーリニキに掛けた主人公名)が自分にお金がないのは、世の中に責任があるという「理論」の元、殺人事件をおかしたのも、まさにサンクト・ペテルスブルクであり、そんな「通奏低音」まであの振付師キリル・シモノフであれば考えそうな重層構造であると感じる。キリル・シモノフにおいては、2006年にゲルギエフ指揮のチャイコフスキーのクリスマスの子供向けバレエであるマリンスキー劇場「くるみ割り人形」において、「この作品は逃れることのできないマーシャの悲惨な運命的物語」とコメントをしたような振付け、キリル・シモノフ版を作ったまさにドストエフスキー的なる振付師。

またこのプルシェンコの衣装。白と黒と灰色。あたかもドストエフスキーの「罪と罰」の如く、人間の善と悪の判断など、はっきりするものではなく、多くの領域が、「灰色」グレイの領域に属するほど、ある意味で曖昧であり、またある意味では、判断や決断の不完全性というか困難さを表しているかのような凄さとも思う。プルシェンコの手袋も、片方が黒。そしてもう片方は灰色と白という、どこまで細部にも拘ったかという経緯が感じられる。

ロシア文学はドストエフスキーにおいても、またトルストイにおいても、プーシュキンにおいても、謎かけの如く読者の能力にあわせて、無限の言葉の深層構造を登場人物の名前自体にさえどこまで掘り下げればいいのか?という読み方が必要であるように、このエフゲニー・プルシェンコの演技をこの数日観続けているだけで、どんどん解釈が深くなってくる。世界最高のフィギュアスケート技術、スピード、ジャンプ(4−3−3回転のジャンプ、トリプルアクセル2回、その内ひとつは、コンビネーション、トリプルルッツ、ビールマンスピン、まったくスピードがない静止した状態からのスピードを上げながら、でもステップ的には氷に対して通常ならスピードなど出せないというエッジを立ててスピードを何回も無くす状況を作りつつ、スピードを上げていくという凄いステップシークエンス、通常、ルッツジャンプとフリップはどちらかが苦手という選手が多いエッジ踏切りの困難さがある、この二つのエッジのジャンプを、まずトリプルフリップ、次に、トリプルルッツという順番で連続して入れているという私のようなフィギュアスケートオタクにて感動するジャンプの構成、また最初のトリプルアクセルにおいてはジャンプしている最中に軸がぶれていて、だいたいの選手はその場合着地が不可能になるのに、エフゲニー・プルシェンコの凄さは、トリプルアクセルでも軸がぶれてもそれに対応して完璧な着地を実現する点にもある。また表情などの表現力)、コリオグラフィー(振付)、音楽、その背後にあるサンクト・ペテルブルクの歴史の光と影。

また、エフゲニー自身の人生だけでなく、シベリアのハバロフスク出身のウクライナ系ソ連人だったエフゲニー。グルジアのトビリシ生まれのコーチ、アレクセイ・ミーシン、Igor Kornelyukはベラルーシのミンスク出身。プーチン大統領がサンクト・ペテルブルク出身故に、なんだか、もうロシア革命の如き圧巻のプログラムであり、チームエフゲニーにおいて、どの地域も(ウクライナ、ハバロフスク、ヴォルゴグラード、ミンスク、トビリシなど)今でもロシアの圧政に苦しんでいる。ヴォルゴグラードはかつてのスターリングラード。ナチスドイツとの第二次対戦中に焼け野原と化した場所である。

このプルシェンコの演技は全てにおいて斬新で繊細で優美でかつ荘厳で、特にエフゲニー・プルシェンコにおいては、それまで自分に対して冷たい、辛い街だったサンクト・ペテルブルクを否世界を制覇した瞬間の演技後の表情と「スパシーバ(ありがとう)」を観客に、あるいはサンクト・ペテルブルクに初めて言えた日だと私においては万感の想いと共に彼の人生を知るにおいてそう感じる。実際、演技後に読唇で「スパシーバ」と言っていると映像でわかる。

もう、サンクト・ペテルブルクの歴史、ロシアの歴史、プルシェンコ(プルシェンコはウクライナの名前で彼の父はウクライナから旧ソ連のハバロフスクに移植した大工で、母親は11歳で一人でサンクト・ペテルブルクに行った当時のソ連崩壊後の1000パーセントを超えるインフレ率のもと、道路整備の仕事をし、父親は出稼ぎの鉄道建設労働者で、もともとエフゲニーは木造の貨物列車を改造したトレーラーハウスにて、ソルネチヌイで産まれ生活していた)の人生、サンクト・ペテルブルクという何もない沼地から10万人とも20万人ともいわれる死傷者を出してまで、ロマノフ王朝のピョートル皇帝が作り上げた、「北のベニス」といわれる運河と海の街、サンクト・ペテルブルクの歴史の栄光と悲惨さ、あらゆる芸術やロマノフ王朝の中での光と影があたかも水面にゆれるような運河に満ちた港湾都市の歴史が、流れる水のように重なって感じられる圧感のプルシェンコの演技である。

奇しくも、サンクト・ペテルブルクの建設300年記念日は2003年5月27日。それはピョートル皇帝が、サンクト・ペテルブルク建設を開始した日であるからだが、5月27日といえば、1905年の日露戦争において日本海海戦で日本の帝国海軍が大勝利し後に日本では海軍記念日となった日。バルチック艦隊はまさにサンクト・ペテルブルクからきていた訳で、なんだか、その日に対馬に着くようにという計算まであったのか?とさえも思えてきたりする。

またエフゲニー・プルシェンコが産まれたシベリアのハバロフスク・クライは北海道の稚内から実に近く、北海道と東京との距離より、小樽や稚内からハバロフスクの距離のほうが遥かに近い。

上記の動画は英語の翻訳がついた、The Town Which Does Not Exist (アネクドート的にロシア人、特に共産主義下の不幸と理想を求めてもそれが得られないというニュアンスが満載の、Igor Kornelyuk作曲の有名な歌)。St Petersburg300のプルシェンコの動画を理解するためには必要不可欠な理解が重要故に是非、こちらもご覧ください。私のように昔から転勤ばかりで、生まれたのが北海道で4歳まで住んでいても、幼稚園二つ、小学校四つに通ったりしてきた私においても、我がアイデンティティと故郷の模索に加えて、他にも多くの意味で、共感する短調の調べの曲です。

さてプルシェンコの演技の最初は、サンクト・ペテルブルクのシンボルであるロシア正教のイサーク聖堂の鐘の音に始まり、音楽的にいえばAlegro Moderate, 次にピアノ曲で、上記の曲がかかるAndante 次にAlegro Vivace,  Adagio, Finale というオーケストラさらには効果音もふんだんに使った五部構成。そして音楽的にも演技や技術においてもプルシェンコのこのプログラムは、音楽楽譜的にいえば、本来はイタリア語でそれぞれの中にも区分があるのですがあえて日本語で書くと、愛、活気、情熱、荒、弱、歌、悲哀、優、感情、速い、陽気、深刻、華、重い、軽い、田園、甘、声、決然と全ての要素が盛り込まれているという圧巻さ!!

また、そもそもフィギュアスケートは一見優美にみえても、フリーの演技を滑るだけで、まあ何キロの距離の全力疾走かというぐらい息が上がり、大変な疲労感。この演技の後でも、プルシェンコ様、息を整える為に、観客に挨拶する前に、スロースピードで滑っておられる。でもこのプログラムの緩急、そしていきなりアレグロ的なるパートから、完全にスピードを止めて、次のパートに行く故に、まさに、これは全力疾走より疲れるいわゆるインターバルトレーニングを思い起こさせる構成故に、体力的にも技術的にも表現するコレオグラフィー的にも実に疲労感の限界に挑んでいる感じである。

また、このロシアのテレビ局。実にカメラワークが上手いだけでなく、演技の最中、一言も誰も何も言わない。日本のフィギュアスケート中継番組と比較して、何たる違いよ、さすが芸術の国ロシアと言いたくなる素晴らしさ。ハラショーとかスパシーバとこのロシアの中継テレビ局に対して私は言いたくなる。また、いよいよ愛弟子(といっても、ミーシンコーチにおいてはプルシェンコに当初11歳の段階では全く期待しておらず、同時にミーシンコーチにては多くの優秀選手を抱えているから、必ずしもずっと愛弟子とは言い難いのであるが)が滑るという直前に、「プラウダ」(真実)とかアナウンサーがいう瞬間に、アレクセイ・ミーシンコーチの瞳が(「黒い瞳」ではなく「緑の瞳」という感じですが)アップになるというテレビ局側のカメラワークも、なかなか、感動的ではありませんか!

1703年の5月27日から建立を沼地で開始して、その期間に10万人から20万人の人々が様々な困難さで亡くなり、また歴史や革命や戦争で、サンクト・ペテルブルクの名前もサンクト・ピーテルブルーフ、サンクト・ペテルブルク、ペトログラード、レニングラード、と変化し、1991年からサンクト・ペテルブルクに変わり続けてきた、その5つの都市名とも連携しているような五部構成。ナポレオン軍との戦争(チャイコフスキーの1812年、War Of  1812という曲もある)、そして第二次大戦にはドイツによる凄まじい900日間にわたる包囲。

ロマノフ王朝に関しては、血の日曜日事件を経て、ロシア革命が起きたり、またサンクト・ペテルブルクで生まれた文学、バレエ、クラシック音楽、エルミタージュ美術館、オペラなどなど、すべての要素をあげようとするといくら文字をつらねても不可能だと思うぐらい、私においては、想像できてしまう。凄い重厚なプログラムで、このプルシェンコの演技を何度観ても観るたびに、新しい発見とその凄さと無限なる重層構造に加えて、過去、現在、未来という時制までもがネヴァ河や運河のごとく行き来する感じも言葉で表現することは到底私においては不可能だと思う。

この頃のプルシェンコはまだビールマンスピンができていたのではあるが、その後、12回の大外科手術を2017年、34歳で現役から引退する間に経験している。2003年には、半月板、股関節、椎間ヘルニア損傷。ロシア、ドイツ、そしてイスラエルで外科手術を行っているプルシェンコ。どれだけ凄まじい練習と競技生活だったかということが如実にわかる。同時に、このプログラムの時は、6点満点(実際にたくさん出ていますこの演技でも)時代であったのが残念。後に羽生結弦さんが新しい点数評価になってから300点越えを達成した時のプログラムよりも、このプルシェンコのプログラムのほうが凄いと私においては、思う故に。あたかもそれを「予言」するかの如き、300点であり、300年でもあるという運命的なる符号という感も。

プルシェンコにおいて2007年には半月板手術。脊髄にカテーテルを入れて、神経を焼く手術。

2012年には膝半月板と椎間板ヘルニアの手術。

2014年ロシアのソチ五輪では、腰に入っていた人工のチタン製のボルトが折れて、脊髄に触れるレベルであった(医師の見解)ので、ロシアの団体戦において主力としてロシアのフィギュアスケート団体戦に金メダルをもたらすも、個人戦では棄権。

また、2003年から、2017年引退までの間に、大学を二つ卒業し、結婚、離婚、引退、子供を授かり、そして再婚、また子供を授かるという凄いダイナミックで熾烈な人生でもあるプルシェンコ。

私においても東京の代々木体育館で2001年に実際エフゲニー・プルシェンコのグランプリファイナルのヤグディンとの凄まじい闘いを観戦したこともある。その時に、通常はそんなことはしないのであるが、最後に表彰式のあと優勝した選手たちが滑走していた時に(浅田真央さんもおっしゃっていましたが、かなり離れた観客席でも誰がきているとか選手にはわかるとのこと)私にだけ届くように(なぜだか未だにわからないのですが)優勝した時に表彰式で彼がもらった花束を私にしかとどかない(前列の方も手を上げて取ろうとしていましたがー笑)ようにスピード滑走しているのに投げて、それでそのお花を私がいただいた!!ということがあります。凄い視力と動体視力と運動能力の高さに、そのエピソードでも驚き!またファンとしては実に嬉しくて、その花束を仕事をする書斎にぼろぼろになるまでずっと大切に飾っておりました。

またマリインスキー劇場の指揮者ゲルギエフ様がまだ日本ではあまり知られていない頃、東京のサントリーホールでのウィーンフィルハーモニー管弦楽団のコンサートにこられていて、休憩時間お一人でシャンパンを飲んでおられたので、本来仕事ではなくプライベートにては実に内気である私なのに「ゲルギエフ様の音楽は素晴らしいです。」とだけお声をかけさせていただいたこともあります。通常指揮者同志ライバル意識も高く、たまたま来日していたとはいえ、他の楽団のコンサートには行かないという方々ばかりの指揮者ですが、ゲルギエフ様ご立派と感動。またゲルギエフ様におかれてのオペラ公演の際にゲネプロにお邪魔する機会があったのですが、最終リハーサルだというのに、演奏時間は2割。あと8割はゲルギエフ様の理論をロシア語でオーケストラに延々と話されていました。いかにもサンクト・ペテルブルク的です。

エフゲニー・プルシェンコさんもマリインスキー劇場で活躍したバレエダンサー、ニジンスキーのプログラムを演技で用いた時も徹底的に文献なども全て読むような方。そんなプルシェンコ様を心から尊敬しています、私は。

また、ロシア関連で言えば、ピアニストのブーニン様に私がキャスター兼コメンテーターを行っていた番組の特集ゲストとしていらしていただき、その後、偶然サントリーホールでお会いした時。ベーゼマンとフランス語ではいいますが、男性がお辞儀をして女性の手の甲にキスをするという貴族的なる伝統。今はヨーロッパでもほとんどの国で廃れていると思うのですが、それをスタニスラフ・ブーニン様が私になさった時は、女性として、またクラシック音楽愛好家として、なんとも言えない幸福な気持ちと、ときめきましたね、やはり。

そんな様々な思い出もあるロシア。思い入れのあるサンクト・ペテルブルクに是非今年の夏(2020年)には行こうと決意していたのですが、挫折。ドストエフスキーの「罪と罰」の舞台の場所なども映像や写真や地図で確認しながら読んだりしている私において、サンクト・ペテルブルクは、あたかも幻影に光と影がゆらぎながら運河を船で渡っていくような華麗で荘厳ながらも陰のあるような怪しげな、魅力を持った場所です。

以下の動画は、一つ前と違い、本物のサンクト・ペテルブルクの映像です。そもそも旧共産圏国家はかつても、また今でも正確な地図が「軍事機密情報」であったり、(中国もそうです)また公共の建物の多く(官公庁とか)また港湾とか地形を表すものが撮影禁止対象になっていたりする故に、例えYou Tubeの動画であろうと、かなりそれを共有したりするのに注意が必要であると強く思います。私において、前述の動画も、また以下の動画も撮影の時期まで推測し、防衛や安全保障分野も専門領域である判断において、大丈夫、No Problem ということを保証いたします。前述の動画よりも音質がよく、私が好きな鴨長明の「方上記」のごとき、過去と現在と未来が。そして光と影の中で、揺られていく運河など、実に情感たっぷりなので是非安心してご覧ください。


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