子どもの目から見た、阪神淡路大震災の一週間
「阪神淡路大震災から25年」と、ヤフーニュースに載っていた。
25年前の1月17日5時46分に起きた地震。
そのころ私は小学2年生くらいで、神戸市西区に住んでいた。
西区は被害が小さかった。報道されていたのは長田区などの地域だ。
地震当日は、単身赴任中の父が神戸から東京へ帰る日だった。父は東京に帰れず、そのまま一週間、我が家に足止めされる。地震が起きた混乱のなか父が居てくれたことは、わたしや母にとって、大きな支えになった。
当時の家は壁にヒビが入っただけで倒壊はせず、最初の赤水をのぞけば、水も出るようになった。
学校は一週間、休みになった。
「スーパーに食材がない」と買い物に行った母が話していたが、どう食料を工面したのか記憶にない。一緒に買い物に行った覚えもない。子どもは危ないからと、買い物には連れていかず留守番させていたのかもしれない。
学校が始まってしばらくすると、転入生が何人かやってきた。わたしの学年にはYくんが。Yくんはひょろっと背が高いメガネをかけた男の子で、笑うと八重歯が見えた。彼は小学6年生ぐらいで転校する。
「家ができたんだってー!」とクラスメートが騒いでいた。
Yくんは震災の影響で家を建て直したために、被害の少なかった西区に一時的に引っ越してきたのだった。
大きな公園には、仮設住宅が建った。近辺で騒がないよう指導され、その公園では遊ばなくなった。震災前に友達とハンドボールをした以降、大きな公園には足を運んでいない。
音楽の授業では、復興のシンボル曲「しあわせ運べるように」を歌うようになる。震災をテーマに小学校の音楽の先生が作曲した歌だ。
この曲の練習のために、わたしたちは、音楽で習う曲をいくつか知らない。
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朝早く焚いたストーブの火。そこに地震が起きて部屋の荷物や建物の倒壊が起こり、火災被害が大きくなったと聞いた。
亡くなった方々のご冥福を心から祈っている。
余談だが、地震当日、母はすぐにスーパーへ買い物へ行った。食料がほとんど売り切れていたからと、鰻を買って帰ってきた。地震後に、普段はご馳走扱いの鰻を食べる奇妙さで、家族で笑った記憶がある。
p.s. 他県の方には馴染みがないと思うが、兵庫県の淡路島にはこの震災でできた断層を保存している北淡震災記念公園がある。
毎年12月に神戸で開催されるイルミネーション「ルミナリエ」も阪神淡路大震災の復興を願い、始まったもの。
これを機会に知っていただけると幸い🐶
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