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「必然のタイミング」は、こう掴む

それは、一本の電話から始まった。

「ヨボセヨ! ヨボセヨ! ケイ、サン、イマス、カ?」

受話器を持っている母が訝しげな表情で言った。
「京ですか? ……少々、お待ち下さい」

母は、受話器を私に渡した。
「京さん、って。あんたの名前言ってるけど……外国人みたい」

私は、眉間にシワを寄せながら、受話器を手に取った。
「もしもし。京です」
「ヨボセヨ! ケイ、サン、デス、カ!? チョト、マテ、クダサイ!」

声の主は女性で、彼女の近くに、誰かいるようだった。
早口の外国語が聞こえてきたと思ったら、違う女性の声が、受話器から聞こえてきた。
「もしもし。京さんですね。韓国の日本語学校のキムです。初めまして」
「初めまして……」
「京さんは、私たちの日本語学校で、来週の4月1日から授業をすることになっています」
「え……!?」

意味がわからなかった。
確かに、当時、私は、働きながら専門学校の日本語教師養成講座に通っていた。そして、専門学校の求人掲示板で、韓国の日本語会話講師の募集が貼り出されているのを見た。私は、まだ講座を修了していなかったが、特に「養成講座修了者」という条件はなかったので、応募をした。しかし、その応募には「不採用」という残念な結果を受け取っていたのだ。

その韓国の募集が、掲示板に貼られたのは、2ヶ月前だった。それに合わせて、その専門学校では、韓国語の無料講座も開かれた。

私は、導かれたように、後先考えずに、応募をした。「絶対に受かる」という思いで、韓国語講座にも通い、勉強にも精を出した。だが、その1ヶ月後、落選の知らせが届いた。一気にやる気を失い、韓国語の勉強も辞めてしまった。4月から日本語教師養成講座に本格的に通うために、仕事も辞めていたが、やる気を削がれ、何もする気になれなかった。

そんなときに、掛かってきた電話だった。

「あの、私、応募しましたけど、採用されなかったんです」
「本当は、京さんが受かっていたんです」
「え?」

思わず、顔がほころんでしまう自分がいた。
キムさんは、続けて、こう説明した。

「私たちの日本語学校は、釜山の近くにありますが、ソウルにある斡旋業者に、日本人の会話講師派遣を依頼しました。いくつかの履歴書から私たちは、京さんを選びました。でも、斡旋業者が間違えて、京さんが落ちたと日本に伝えてしまったんです。さっき、斡旋業者から、聞きましたが、私たちは、京さんに来てもらいたくて、急いで、直接電話をしました」

私は、自分を必要としてくれる人たちがいることに、心を揺さぶられた。

「ちょっと、待ってください」

私は、電話口を手で抑えて、隣で心配げに立っている母に伝えた。

「お母さん。私、韓国の日本語学校に採用されていたんだって。4月1日から授業することになってるんだって」
「ええ!! 何言ってるの! そんなの無理に決まってるでしょう。今日何日だと思ってるの!」
「でも、せっかくだし、行きたい……」
「行きたい、ったって……とにかく、もうちょっと、よく考えてからにしなさい。そんな、すぐ行けるわけがないんだから」

確かに、母の言う通りだった。
4月1日は6日後だった。行けるわけがない。とにかく、専門学校にも連絡をしてみないと真相はわからない。

「キムさん。すみませんが、4月1日からは無理だと思うんですけど、何日までに着けば大丈夫ですか?」
「私達は、京さんが来ると思って、パンフレットにも京さんの名前を書いて作ったんです!! もう、生徒も集まっています!! だから、とにかく、3月31日までに来てください!!」

無茶苦茶だった。無茶苦茶すぎて、可笑しくなった。
私が落ち込んでいる間に、私の知らないところでは、準備が着々と進められていたのだ。

私は、もう電話口を抑えずに、母に話し掛けた。

「3月31日までに行かないとだめだって」
「そんな……チケットだって買わないと行けないし、荷物とか……布団とか、どうするのよ!」

そんな母の声を聞いたキムさんは、こう答えた。
「大丈夫です! 布団はあります! チケットは、領収書を持ってきてください。こちらで払います! とにかく、京さんが来てくれれば大丈夫! あとはなんとかなります!」

キムさんは、明るくこう言い切った。
私は、なんだか楽しくなってきた。
とりあえず、「よく考えて明日電話します」と言って、日本語学校の電話番号を聞いてから電話を切った。

夢の中で起きている出来事のようだった。
1996年3月26日。24歳、初めての「人生の転機」だった。

その夜、ニュースでは、竹島問題(竹島を韓国と日本が互いに自分たちの領土だと主張し、解決されていない問題)で韓国人が日本の国旗を焼いている映像が流れた。

「これ、まずいだろ」

夕食を食べながら、父が言った。

「でも、もう生徒も集まってるって……」
「騙されてるかもしれないだろ」
「……」

何も言い返せなかった。
キムさんの声は、決して騙しているようには聞こえなかった。だが、確証はなかった。

翌日、私は、専門学校に問い合わせた。ソウルの斡旋業者は、実在していた。そして、まさに、その斡旋業者が、私は不採用だと専門学校に連絡したのだった。私が、専門学校の担当者に、実は採用になっていたという話をすると、4月から通うことになっている講座を休学することができると言ってくれた。

もう、迷うことはなかった。
両親は、心配しながらも、了承してくれた。
3月31日の航空チケットを予約した。
キムさんに電話をすると、とても喜んでくれた。
「空港で待っている」と言ってくれて、電話を切った。
それからは、初めての一人暮らしのために、半日買い物をし、教材を揃えるために、半日本屋を巡り、2日で荷造りをした。

31日、私は、成田空港に立っていた。
前日、急な旅立ちを電話で伝えたにもかかわらず、10名ほどの友人が集まってくれていた。
この決断は間違ってはいなかった、と背中を押してくれているように感じられた。

飛行機の窓からは、晴れ渡った空を背景に、雪をかぶった富士山も、私を見送ってくれていた。
四国のしらなみ街道の美しさを、上空から初めて知った日でもあった。

「騙されてもいい」

そう、思えた。
そう、思える、すがすがしい門出だった。

釜山空港に降り立つと、出口には、キムさんがプラカードを持って、待っていてくれた。
キムさんは、小柄で、目鼻立ちがしっかりした、ボブカットのきれいな女性だった。
日曜日なのに、紺のスーツを来て出迎えてくれた。

「京さん!!」

キムさんは、握手をした後、軽いハグをして、それから腕を組んできた。
後でわかったことだが、韓国は、男女ともにスキンシップの大変多い国だった。
私は、いきなり腕を組まれたことに驚いたが、嫌ではなかった。むしろ、安心感を覚えた。
「騙されてはいなかった」という安堵感も、混じっていたのかもしれない。

釜山空港から、車で1時間ほどすると、私が働く日本語学校に着いた。
学校で待っていてくれた校長先生は、両目が腫れ上がっていて、サングラスを掛けていた。それが、とても痛々しかった。

校長先生は、サングラスを取って、私に向かって何か話し、キムさんが通訳してくれた。
「二重まぶたの手術をしたばかりなんです」
「え!?」

聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして、なんと答えていいかわからなかった。
すると、また校長先生が私に何か言った。
「京さんも、手術したんですか?」
「え? 私……!?」
キムさんが、自分の目を指して、
「私は、手術していません」
と、ちょっと自慢げに言った。
「あ、私も、です」
慌てて、私も答えた。すると、学校長がまた何か言った。
「手術したみたいですね、って」

……微妙な褒め言葉だった。
「プチ整形」という言葉がまだ日本に生まれていなかった当時の私にとっては、衝撃的な異文化体験だった。

翌日、朝6時半から授業が始まった。
今でこそ、日本では「朝活」という言葉が浸透しているが、韓国はずいぶんと昔から、会社や学校に行く前に、語学学校や水泳教室などの習い事に通う人が多かった。

私が担当する日本語会話のクラスは、午前午後に3クラス(初級会話2クラス、中級会話1クラス)ずつあった。1クラス1時間だったので、午前中の授業は、9時半には終わった。午後は、18時半から21時半まで。昼間は、自由時間となるので、授業準備や韓国語の勉強時間に充てた。

日本語学校の方針は、韓国人の先生のクラスで、文法をしっかり学び、それからネイティブの日本人のクラスに進む。だから、私のクラスに来る生徒たちは、日常会話なら、ゆっくりと話せばだいたい理解できるレベルだった。だが、話すのに慣れていない人は多かった。生徒は、主に大学生や社会人が多かった。たまに、主婦や日本漫画が好きな中学生や高校生がいた。私は、1ヶ月学んだ韓国語をすっかり忘れていたので、日本語しか話せなかった。だが、それが、生徒たちにとってはよかったらしい。「日本語を話さなければ通じない」と、生徒たちはみながんばって、学んだ日本語を駆使して、話そうとしてくれた。

当時、韓国の習い事は、水泳教室なども、週5回だった。だから、生徒たちは、平日毎日通って来た。小さな田舎町だったので、日本人に会うのは私が初めてだという生徒も多く、雪が降っても、停電になっても、休まずに来てくれる生徒たちが多かった。それは、私の励みにもなった。

日本語教師初心者のつたない私の授業を、一生懸命聞いてくれる生徒たちのために、授業準備は念入りにしっかりと行った。
自分が話す日本語の一つ一つが、生徒たちの役に立っている。
それが、本当にうれしかった。

毎日B5の日記帳が1ページぎっしりと埋まるほど、濃厚な、充実した日々を過ごした。
こうして、「楽しい」という言葉に凝縮された契約の1年間は、あっという間に過ぎていった。

日本へ帰国し、友人たちに再会したとき、1年では、みな何も変わってはいなかった。
その時、韓国で過ごした1年間が、自分にとってどれほど貴重な1年だったかを思い知った。
韓国で学んだことは、計り知れなかった。日本語や日本文化を教えにいったはずなのに、私は、生徒たちから韓国語や韓国文化など多くのものを学ばせてもらった。韓国人の先祖を大事にする心、親や先生など目上の人を敬う心、愛国心など、日本人が忘れかけている大切な心も、生徒たちの行動から見て学んだ。勉強熱心で、向上心も強かった。そんな韓国人と毎日接していたからこそ、1年で大きく成長した自分を感じることができた。

私は、帰国2ヶ月後、今度はソウルに行き、大学の語学堂という留学生別科のようなところで、韓国語を1年間学んだ。もっと上手に日本語を韓国人に教えるには、自分が韓国語をもっと理解していなければならないと思ったからだった。
その後、日本に戻り、日本語教師養成講座の続きを受講し、釜山の大学で日本語教師として採用され、3年間教鞭に立った。

海外で仕事をすることの楽しさを覚えてしまった私は、その後、拠点を南米に移し、日本語ボランティアやボランティア関連の仕事をすることになる。そこでは、韓国とはまた違った、ラテンの陽気な人たちとの出会いがあり、悠々と流れるアマゾン川のように、おおらかな時間が流れていた。その流れに乗って、私は、南米でも6年ほどの時を過ごした。

1996年の、あの電話が鳴ってから、私の人生は大きく変わった。

あの時、「騙されているかもしれない」と、渡韓するのを辞めていたら、あの濃厚な1年はなかった。その後の海外での仕事の楽しさも、味わえなかったかもしれない。

海外で仕事をすることは、何が起こるかわからない「ワクワク感」が、至るところに散りばめられている。滞在期間が決まっていることで、楽しもうとする気持ちがより発動するからかもしれない。

今の仕事は、今年度で契約が終わる。
コロナの影響で、次の見通しが全く立っていない。

だけど、私は、静かにワクワクしている。

来年、2021年は、富士山に見送られた年から25年、四半世紀という節目の年だからだ。
あの時と違うのは、今は、家庭があって、守るべき家族がいるということだ。
だけど、2021年は、家族を連れて海外で仕事をする。私は、そう、決めている。

「1996年の再来」

勝手に、そう思っている。いや、思い込んでいる。
だけど、それが大事だとも思っている。

今思えば、1996年の2年前から着々と準備はしていた。
日本語教師として海外に行きたい、と思い立ってから、養成講座に通い、英語や韓国語を学び、日本文化を身につけようと、書道、着付け、生花も習った。どれだけ習っても自信が持てなくて、自分では気づけなかった。だが、すでに準備は整っていたのだ。
そうだ。1996年のあの電話は、鳴るべくして鳴ったのだ。

今の仕事に就いた時も、契約が終わる2021年を見据えていた。
世界のコロナが終息したら、すぐに動けるように、自分に不足しているところを補いながら、着々と準備を進めている。
今は、今の自分自身に、こう言ってあげられる。

「それでいい。自分を信じて、待てばいい」

偶然や奇跡を待っているわけじゃない。
「楽しい仕事」をするための、必然のタイミングを待っているだけなのだ。

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