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教育虐待と私

17歳の春、児童養護施設に行った。
施設に行った理由はとてもじゃないけど一言では言い表せない、複雑なものだった。
カテゴリー的に言うと身体的虐待、心理的虐待、ネグレクト、・・それらが複合的に合わさって保護に至った。

物心ついた時から17年間虐待を受けて、特に小さいころの思い出の大部分を占めているのは、いわゆる「教育虐待」だ。
「教育」してもらったのに「虐待」という言葉で表さざるを得ないのは、私にとっても、そしてきっと父にとってもあまりにも残酷だ。
それでも、「教育」のおかげで私は賢い子どもに育ったし、「教育」のせいで私は疼く傷を持ってなお生きている。


父による「教育」は、幼稚園に入る頃にはもう始まっていたと記憶している。(もちろん私も父もは虐待だとは思っていないが。)

一番初めの目標は「小学校お受験合格」だった。
幼稚園から帰ってきたら毎日ダイニングテーブルに座って、目の前に座って険しい顔をしている父から勉強の手ほどきを受けた。4歳ではひらがなを覚え、5歳では九九を暗記し、6歳では方程式を勉強した。

父は普段はニコニコしているが怒ると豹変したように恐ろしく怖い人だった。
問題を間違えるとものすごい勢いで怒鳴りだし、ものさしで叩く、本の角で殴る、顔や尻をひっぱたく、ベランダに追い出される、表から鍵をかけて自分の部屋の中に閉じ込められる。
そして、私が「ごめんなさい!!」とひとしきり泣き叫んで、また勉強に戻る、とまあ、そんな具合だった。

母もまた父からの暴力の被害者だった。
母が父に口出しをすると父の逆鱗に触れ叩かれる、殴られる。だから、母は父の教育をただ見ていた。たぶんそうするしかなかったんだと思う。

6歳からはお受験のための幼児教室にも行った。すでに父から学んだことばかりで内容はつまらなかったが、そこでの授業の方が何十倍も楽しかった。先生とも仲良くなって、お受験前日には合格の粉薬(たぶんお菓子?白くて甘い粉だった。今考えるとけっこう怖い。笑)をもらって、当日に臨んだ。

結論から言うと、お受験は不合格だった。
合格発表の日の父は、怒りもせず、叩きもせず、静かに落胆しているような表情だった。
そして次の目標ができた。
「中学受験」だ。


中学受験の勉強は小学1年生から始まった。
毎日学校から帰ると2~3時間父から教育を受けた。
小学校のテストは100点を当たり前にしなさいと言われた。90点台だと「賢いのがバレてほしくないから、分かってた問題だけどわざと間違えたんだよね?」と。80点台以下だと「気合が足りていない」と父の部屋に連れられ、泣き叫ぶまで尻を叩かれた。

一学期に一度の通知表は「体育以外は」3段階評価のオール3が前提だった。父曰く、「体育は別にできなくていいんだよ。勉強さえできていれば。」とのことだった。2があると前述の「賢いのがバレてほしくないから~・・・」という重っ苦しい圧がのっしりとかかる。


そして小学校入学頃から、「教育」の他に「指導」が追加された。

・放課後、土日は基本的に勉強すること。同級生から遊びに誘われても断りなさい。

・長期休暇の宿題は初めの1週間で概ね終わらせること。残りの休み期間は父と勉強すること。寝る時間、起きる時間、ご飯を食べる時間、勉強する時間は父が作った表の通りにしなさい。(「~7時 起床」など書かれた表がおもちゃ箱の前に貼られていた記憶・・)

・○○ちゃん(主には大人しくしている子)とは遊んで良い。××ちゃんと△△ちゃん(活発な子たち、やんちゃな子たち)と遊ぶと馬鹿になるから遊ぶな。

・馬鹿になるから駄菓子屋には行くな。映画も禁止。マンガ、アニメ、ゲーム、雑誌も禁止。ニュースとNHKとその他親が普段観ているものは馬鹿にならないので観ても良い。

・繁華街、ゲーセン、カラオケには行くな。馬鹿になる。

・運動系のクラブや習い事はやらないこと。運動やスポーツは馬鹿になる。

(覚えている限りの私へのルールたち おかげさまで友達の会話に入れなかった・・)

などなど。すべて父なりの「教育」に基づいたものだったんだとと思う。

幼稚園から父からの「教育」の在り方、変貌する父に対する恐怖を感じてきた私は、反抗するとか、おかしいと思うとか、そういう気持ちはほとんどなかった。今考えてみると、当時の私は「お父さんの言う通りに動くロボット」だったと思う。
「100点が当たり前」「父の思っているように動かないと。」「間違いは良くないこと。」こういう無意識の(あるいは父にとっては意識的な)刷り込みが後の私を苦しめることになる。


父を擁護するつもりはないが、父は私を脅そうとして「教育」「指導」している訳ではない。彼にも彼なりの思いがあった。

父の実家は両親共働きで、父は祖父母からほったらかしの幼少期を過ごしたそうだ。
医師になって国境なき医師団で働きたい、と志高く大学受験するが医学部には入れず、そこそこの大学に行って、そこそこの会社に就職して、今に至る、という感じだった。

父は私に説教する時によくこう言ってた。

「あなたには医者とか学者とかになれる学力をつけてほしいんだ。私はそうじゃなかったからあなたの職業選択の幅をできるだけ増やしてあげたいんだ。」

叩かれた尻が真っ赤になってじんじん痛みが脈打つのを感じながら、「父のためにももう二度と間違ったことをしないんだ」と心に誓い、また間違えて叩かれる。同じことの繰り返し。
そんな生活が中学受験まで、そしてやっとの思いで合格した第三志望の中学入学まで続いた。


中学2年生に上がる前の春休み、母が病気で亡くなった。
父は収入がほとんどなく(おそらく同時期に仕事を辞めている)、保護される高2までの約3年間は父と2人でマンスリーマンションやホテルで過ごした。
父からの「教育」はここで終わった。

母を亡くした後の父には「怒号」とか「威勢」とか、そういうのは全く感じられなかった。以前のように手を上げることはなく怒る回数も格段に減った。その代わりそれまで好きだったタバコの数は一段と増えた。

弱っていく父の姿を見て、私はもうどうしたらいいのか分からなかった。
私にとって「父」はある意味生きがいであり、人生のすべてだったと思う。その逆に、父にとっては「私」と「母」が生きがいで、その片方を失った父はもう魂を吸い取られたかのようにガリガリに痩せていった。

父に導かれ人生を歩んできたが、ここでその先導者がいなくなったらどうしようか、と不安を抱いた。父が老いていったのは年のせいなのか、それとも生きがいがなくなったからなのか。

父のことは好きではないのに、嫌いにもなれない。さっさと離れたいのに離れたくない。

それでもだんだん貯金は少なくなり、食べ物が買えなくなり、学校に行くための交通費が無くなり、私は父との「別れ」を選択した。


施設に行って印象的だったこと、というのが私の中にいくつもあるのだが、そのうちの1つが「ゆきちゃんはどうしたいの?」と自分の意見を真摯に聞いてくれるところだった。

勉強面で関して言えば、高3夏いよいよ受験勉強が始まるというときに「志望校調査」なる紙が配布された。それに自分の行きたい大学を書いて先生に提出する、というものだ。


一応調査票自体は高1からあったが、いつもそれを書くのは父だった。
父に渡すと、
「ペン貸して」
と言われて、第一志望の欄に
「京都大学」
と書かれた。そんな学力を持ち合わせていないとお父さんも私も分かっているはずなのに。生きがいが私しか居なくなったお父さんはもうそうするしかなかったみたいだった。


話を戻すが、それで、初めて「自分の行きたい大学」なるものを書かなければいけなくなった私は、必死にネットで検索してなんとかそれっぽい大学を決めた。
そして職員に言った。

「あのさ、○○大学を第一志望にしたいんだけど…資料請求したけどよさそうだから…今度オープンキャンパスも行きたいなとか思ってるんだけど……どうかな…?」

そしたら職員が即答。
「え?ゆきちゃんの行きたいとこ行けばいいんじゃない?」と。

当時の私からしたら衝撃の一言だった。
え、みんなはどこに行ってほしいとかないの?私のワガママになってない??医者は?学者は?
と頭の中は混乱状態だった。笑

私が今までずっといた2人きりの空間は、勉強の点数ですべてが決まった。
勉強ができないと怒られる。できると褒められる。
テストの点数が高ければ高いほど良くて、低ければ低いほど悪い。

今考えたら職員が「この大学に行きなさい!」なんて言わないのは当然だが、当時の私は良い意味で常識を覆されて、「ああ、これが自我か…」と思ったりした。


第一志望の大学に合格して、授業をたくさん受けて卒論もしっかり書いて卒業して、今社会人1年目になる。

社会人は今までと違ってますます「点数」という絶対的なものがなくて、自分がどこまで頑張るのか、どこで活躍するのか、まさに私が高3の夏に体感した「自我」が必要となった。今そんな社会の荒波に絶賛揉まれ中だ。

言い訳をしたくはないが、それでもやっぱり100か0かで17年間判断されてきた私は「100点のもの1つより80点のものを3つ」とか「仕事で力を抜く」とかそういうのがまだイマイチ分からなくて、困惑している。
仕事のことで注意されるのも「怒られた!悪いことをした!」(お父さん理論でいう100じゃない方)とパニックになり一人で泣いているときもある。

でも、いいことも1つだけあった。
勉強はやっぱり好きなままなのだ。
自分の努力が絶対的評価で返って来るのが楽しくて、今でも仕事の傍ら資格取得は頑張っている。


そういう傷跡もあるけれど、なんとか、私、生きています。



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