そもそも何故チェルノブイリに行ったのか②思い返せば動機がいっぱい
こんにちは、児童養護施設で働く心理職、もとい、チェルノブイリツアーに参加した観光客、ゆきちかです。児童養護施設のテーマに全く関係のない、チェルノブイリツアーの感想文を書いています。
今回は前回の続きで、チェルノブイリツアーに参加した動機と、参加するまでのドキドキの経過を振り返ります!目次的なページはここ。
「行った」というより「行けた」
不謹慎で不勉強な観光客でも訪れることができる場所、チェルノブイリ。
なぜ行ったかと言えば、幸運にも入っていいよと許可をくれるウクライナの人達がいて、これまた幸運にも連れて行ってくれる人達(ゲンロン、H・I・S)がいて、さらなる幸運として職場の休暇があっさり取れて、そして何よりも奥さんがOKをくれて、お義父さんお義母さんが旅行中泊まりに来て子どものお世話をしてくれることになったからです。すごい幸運続き。
“行ったこと”よりも“行けたこと”の方に感謝と感動が詰まっています。成田空港へ向かう電車の中でスカイツリーを見ながら「これってすごいことだよなー」とつぶやいていました。
↑旅の出発を素敵に飾ってくれたスカイツリーと夕日。
思い返せば動機がいっぱい
さらりと謝辞を表したところで、個人的な動機として何があったのか振り返ります。なぜ私はチェルノブイリツアーに参加したのでしょう。
①いろんな人が関心を寄せた、簡単に入れない場所に行ける。
②一般的には危険と見られている土地にお金を払って足を運ぶ面白い人たちと出会える。
③東浩紀さんとお会いでき、旅行中はお客さんとして構ってもらえる。
④おそらく心理職の業界でもレアな「チェルノブイリに立ち入ったことある施設心理士」という強烈な個性が手に入る(当初の思いとは裏腹に、肝心の使用用途に困ってるなう)。
後半にいくに連れ、私の欲求の置き所が露わになるので恥ずかしい限りですが、特徴的なのは「チェルノブイリ」という言葉の向こう側、つまり現地で普通に暮らしている人の存在を意識していない点です。
旅行に行く前の時点では、私の中のチェルノブイリは「街から一瞬で人がいなくなって、丸ごと廃墟になったとかいうすげえ場所」くらいなもので、あとは東さんの著書「ゲンロン0」に書かれていたチェルノブイリツアーに関する記述と、うろ覚えですが、前回か前々回のツアーのツイートを見たという程度だったと思います。
前回のツアーの募集の段階では、もうちょっとで赤ちゃんが生まれる状態の奥さんにツアーの存在を知らせて「こんなぶっ飛んだツアーがあるらしい!絶対面白い人しか来ないよ!!」と興奮気味に伝えるのが精一杯だったのですが、今年の春に今回のツアーの募集がかかってからはもう心臓がバクバク。時期的にも、お小遣い貯金のたまり具合から見ても、ギリギリ行けそうで、尚且つすぐに定員が埋まるかもしれない見通しのなさ!その日の夜には奥さんに相談を持ちかけました。
上記の目的が叶うことを想定すると、旅費は安いくらいに思っている!とプレゼンし、できるだけ安心材料が揃うよう調整を図ることを伝え、「たとえキャンセル料が発生する時期に入ったとしても、不安な条件が発生したらストップをかけて良い権利」を奥さんに持ってもらい、どうにか了承を得ました。
申し込んだ後の興奮もすごかったのですが、この時点でもチェルノブイリで仕事をする人、住んでいる人の存在は頭にありません。
「ヤベー、このまま何も問題が起こらなかったら、6月頭には日本じゃなくてウクライナにいるんだ!ヤベー!」
一人の不謹慎で不勉強な観光客が現れた瞬間でした。
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↑イスタンブール空港で乗り換えを待ちながら飲んだトルコのコーヒー。
苦味の後の水が甘い。
自己紹介タイムから既に面白かった。
②のねらいは見事に的中したと確信していた時。
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観光客をすることで表現したかった欲求
このように、私はより観光客らしさを持ってツアーに参加したと思っています。これが「ゲンロン0 観光客の哲学※」で東さんが語った観光客の姿なのか、今ひとつ確信が持てませんが、次のように自分の存在を書き表すと、「観光客をすること」を上手く利用できたのではないかと思えてきます。
・特に政治的関心や原発の運用について明確な意見を持っておらず、何らかの関心を示したい感覚を持て余していている人間。
・いろんな立場の人との間に目に見えない利害関係を結びながら生きていると思っていて、何らかの立場には簡単に傾倒できず、距離を取っている人間。
・明確な行動を取れていない自分を弱いと評価する傾向があり、劣等感を感じやすい人間。
どれも私の一面を表した言葉です。これだけ並べると、ちょっと自己否定の感じが強いでしょうか(その他の愉快な一面がたくさんあるよ!)。
それでも、原子力の負の側面を強く体験してきた国に生まれたし、今となっては良いんだか悪いんだかわからない教育もバッチリ受けちゃったし、この国で生きていく上で当分は原発とお付き合いしていくわけだし、どうにかして表現したい「関心の示したさ」というものがある。
でも自分の考えが極端な方向に引っ張るかもしれない「高い関心」としては表したくない。結構面倒臭い欲求です。
観光客を名乗ってチェルノブイリに赴くことは、そのような欲求を無理なく表現することに適していたと思います。何と言っても観光客。欲求不満があっても、楽しく過ごす自分に罪悪感を持たなくて良い。予想だにしない学びと揺らぎを一身に受けていきます。
※「ゲンロン0 観光客の哲学」というのはコレ。
情報量的にも、熱量としてもアツい本です。
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↑イスタンブール空港を発つ飛行機の前に伸びる、
不謹慎で不勉強な観光客の影。
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ということで、目先の欲求と、いかんせん解消しがたい欲求不満を抱えて旅行に出発した私。果たして、目先の欲求はどのくらい叶うのか。欲求不満は解消に向かうのか。
旅の記録がしばらく続きます。
ゆきちかさん