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馴れ親しみをもったもの、あとそのエラーについて

最近の、私の頭の中での重要語は「馴れ親しみ」です。同じことが繰り返されて、身にも心にも馴染んだ状態についてのお話です。

こんばんは、ゆきちかさんです。児童養護施設で働いていて、程よく年月を経たことで、施設の暮らしに慣れ親しんだ状態にあります。

この馴れ親しみ、良くも悪くも「予測可能性」という効果を発揮します。予測可能、というのは、未来を予測することですが、それと同時に「今、生きている」という強烈な事実の確認作業にもなっています。これまでの自分の判断で、自分は今、生きながらえている。次もこの馴れ親しんだ判断に頼れる、というもの。

これは、不適切な養育と呼ばれる、生存リスクの高い環境下で生きてきた子どもが自力で身につけた方法にも言えるし、職員が子どもに対して行う行動全般にも「これでどうにかなった」という経験によって裏付けられたやり方というものがあります。誰でも持っているわけです。

馴れ親しんだものは、予測通りになることで、結果がもたらす不利益がいかなるものであっても「予測通り」という安心材料を提供してくれます。どうなるかわからない不安よりも、形を伴った、経験済みの恐怖の方が小さく感じられるし、例え有効打ではなくとも対処の仕方があります。未経験の愛される体験より、殴られ罵倒されることの方に安心感を覚えてしまう、怒鳴って言うことを聞かせた方が子どもが言うことを聞くのでそれこそ親子関係だと思ってしまう、など負の影響も満載です。

方法の是非を問わず、一定の安心が得られるとなると、誰も自分の馴れ親しみをもったものを手放したくありません。年齢を重ね、自分の生き方が固まっている人ほど、不合理や不利益があっても手放せないのではないかと思います。馴れ親しんだものから離れるという判断をして、もし間違ったとしたら、残り少ない時間資源が無駄になっただけとなってしまう。その人がすでに持っている、守りたいもの多いほど、身動きが取れなくなります。

余裕があれば解決できるけど、なければどうするか。おそらくここで、慣れ親しんだものの反復を崩す「エラー」に頼る、が出てくるのではないかと思います。それは一部では「出会い」と呼ばれたり、「ターニングポイント」と呼ばれたりしているものだと思います。慣れ親しんだものとの決別という喪失体験を伴うわけですが、エラーをとても肯定的に捉えた言葉になっています。

この意味で、児童養護施設に来た子どもの慣れ親しんだものを大切にすることと並行して、家庭環境による負の影響がある場合は、それらのエラーも歓迎するという二重の文脈を進むことになると思っています。偶然性に期待しなければならない点は「それってプロなの?」という疑問も立ち上げてしまいますが、予想もし得なかった幸福に開かれた態度を取ることって、親の態度でもあると思うのです。次世代とその世界に対して、親の態度を示せる大人になりたいのです。

ゆきちかさん

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ゆきちかさん
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