見出し画像

施設が児童養護施設であるための子ども


こんにちは。ゆきちかさん、という名前でnoteを書いています。
児童養護施設の心理職として働いています。(ツイッター@yukichika_3)
本noteの目的は、“児童養護施設”の検索結果をよりグラデーション豊かにする、というものです。

 今日の話は、自戒をこめた意味もあって強めのタイトル。いわゆる手段と目的が入れ替わってしまうことについてです。

 生きてきた道が全く異なる相手と、ちょっとだけ重なる部分がつながりの起点になる。と、昨日はそのように書きました。今日もそう感じています。

 昨日書き終わった後に考えたのが、自分の属性の一貫性を保つためには、その属性たらしめる行動と、その行動の結果を引き受けてくれる対象が必要になる、ということでした。

 施設に関わる人の属性、というか役割で考えてみましょう。施設長が施設長として存在するためには、施設が必要です。施設がない施設長はいないし、名乗ったとしてもハンドルネームになってしまいます。同様に、指導員には指導させてくれる相手、保育士には保育させてくれる相手、カウンセラーにはカウンセリングを受けてくれる相手、調理員なら料理を食べてくれる相手が必要です。
 この話は、以上のような役割だけに止まりません。「子どものために何かしよう」を達成するためは、何かすることを受けてくれる子どもの存在が必要です。

 このnoteが成り立つためにも施設の存在が必要で、その施設には子どもが必要で、…つまり、“児童養護施設”の検索結果をよりグラデーション豊かにしようを成立させるために、子どもの存在に頼っているわけです。

 このように、結構簡単に“子どものため”って言葉は崩れちゃうんですね。皆さんも、身の回りにある“○○のため”って言葉を見たときどのように思うでしょうか。もし、瞬間的にでも、自身のアイデンティティを保とうとするニュアンスが入ってしまえば、すぐに子どもに見抜かれます。私たちが“○○のため”という言葉の裏側を透かして見るのと同じように。見抜かれると、とてつもなく恥ずかしい気持ちになりますよ。

 因みに本noteにとっての子どもの存在は、大きな目的の横っちょに位置付けている感じです。noteを書き続けることによって、結果的に子どもにとって役立つ何かが生まれたらいいな、とは思っていますが、主な目的は児童養護施設の概念を崩すこと、または拡がりを持たせること、というイメージをしています。子どもにとっての良し悪しは、大切なんだけど、中心ではない、と言いますか。

 色々書きましたが、まとめとしては、属性(つまり人を特徴づけて分類したときのカテゴリー名)が道具であることを重々承知しておく必要があるよね。ということです。これは着地できているのか微妙ですが、今日はこれにて。

 児童養護施設では、目的が何だったのか、自問自答の日々が続きます。

 どうもありがとうございました。

ゆきちかさん

いいなと思ったら応援しよう!

ゆきちかさん
自分の好きな施設に訪問して回りたいと思います! もしサポートがあれば移動費と施設へのお土産代に費やします!