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半年で2回死にかけた90歳父。人の生きる力とはなんだろうか?高齢両親の背中で学んだこと。

(2024/2/15ブログ記事をこちらにお引越ししました。)
こんにちは。私は一人っ子で両親がまだ存命です。父は91歳、母は85歳、私は58歳です。

今回は父の身に起きたこの半年のことを備忘録として書きます。高齢親がいる方のご参考になれば幸いです。

8年前の父の癌の手術は順調

8年前に父は大腸がんと前立腺がんの治療で入院し、手術しました。父はそれまで何年も健康診断を受けずにいて、もともと生命保険にも入らないような、自分の身体の病気は自分で治せると言い張るような人でした。

自分の身がまさか深刻な病に侵されるとは予想もしていなかったのでしょう。ひどいひどい便秘に悩まされるまで決して診察にも行こうとしていませんでした。

父は昭和一桁生まれのがんこなおじいさんだったのですが、さすがに便秘状態が異常だということで母にせっつかれてやっと診察してもらうことになりました。するとすぐに大きい病院で検査することになり、癌が判明したわけです(大腸がんはステージ4)。

この時の手術では、すべての癌はきれいに取れて術後の体調も順調で、2週間ぐらいで退院となりました(当時82歳)。

当時私はまだ仕事を持っており中学生と高校生の子どもがいたのと、住まいが両親と同じ大阪府内にあるにしても片道1時間以上かかる所だったので、母が元気なことを幸いに、ほとんどのことを母にまかせっきりで、父の入院中は2~3回ほどのお見舞いをしただけだったと思います。

そして父は退院後はすぐに普通の生活を送るようになり、両親は好きな麻雀教室に週2回通って楽しんでいました。

90歳は節目?

ところが父が90歳を迎えたころから少しづつ歩く足がのろくなり、よくつまずいたり、たまに転ぶようになりました。

それでも夫婦で麻雀教室には通っていましたが、2022年晩秋のある日の帰り道、地下鉄の駅構内で父は急に歩けなくなり、駅員さんに車いすで助けられるようなことが起きてしまいました。

その日は駅員室で少し休ませてもらい、無事にゆっくり家にたどり着くことができたので、あとで母から連絡を受けた私も安堵しました。

実はその頃、父に貧血の症状が出ていて医師から薬をもらっていたのですが、足のもつれが急に進み始めたので、父はその件があってから家の中でも外でも杖を使うようになりました。

杖は四つ足の杖を私が前もって実家に買っておいておいたものです。父は体重を預けても安心だと言ってくれました。

一方で医師からは、もしかしたらその時飲んでいた貧血の薬が父の身体に合わないのかもしれないということで、薬を変えることになりました(薬の注意書きに、まれに副作用で”歩行困難が起きる”とあったようです)。

薬を変えてもらうと確かにまた父は歩けるようになり、また大好きな麻雀教室に夫婦で通うようになりました。

しかし半年後、違う貧血の薬を飲んでいてもいっこうに血液検査での貧血項目が改善していないとかで、医師からすぐに病院での精密検査をすすめられ、検査入院することになりました。

私はこの時ネット検索をしてみたのですが、大腸に病気があると貧血の症状が出るというのを、初めて知りました。

検査結果は大腸がん(横行結腸がん)でした。再発です。8年間定期的に再発していないか病院で調べていたのに、ここでやっと判明したのです(ずっと同じ大きい病院で検査していました)。

ただし他の癌は見当たらないし、父の癌がステージ2なのと、90歳でもまだ歩けるし体力もそれなりにあるし、このまま放っておくとまたひどい便秘になるから、

「2年先で手術するより今手術したほうが回復はまだ早いでしょう」

と担当医師に言われ、あたふたとお盆後(2023年8月中旬)に入院することになりました。

8年前の入院とは違い、さすがに両親ともさらに高齢になっていますし、母が少々弱気になっていたので私もバイトの合間をぬって週2回、入院中の父を見舞うことにしました。

父が入院中は母が一人暮らしになるので、帰路に実家にも寄って母を家に入れてから家路につくようにしました。

大阪ではめずらしく、その病院では家族なら2人までは1日15分までの面会が許されていたので助かりました。

手術後、医師の話ではきれいに癌は取れ、順調であれば10日ほどで退院できるということでした。

病院の別室できれいに取れたという腸の患部を、私と母は「生」の状態で見せられたので、私はしばらく焼肉は食べられそうにないなあと感じたものです。

心配していた父の「せん妄」の症状は、術後3日たっても起きず、安心していました。

さあ、それから年末までの間、父は2度死にかけることになりましたが、この時はそんなことは全く予想していませんでした。

1度目の風前の灯:イレウス(腸閉塞)と誤嚥性肺炎

父は胃腸科の一般病室で点滴から栄養や薬をとっていました。術後の翌日、イレウスがおきたので長いチューブを口から腸まで通すことになりました。

しかし良くないことがまた重なりました。このチューブか何かの影響で父は数日後、誤嚥性肺炎を起こしてしまったのです。

病室で父は酸素マスクをつけていました。そして数日後には異なる病室に移され、もっと大きな機械のついた、顔を大きく覆う酸素マスクをつけるようになりました。

そして9月半ばのある日、母は担当医師から父の命が危ないことを知らされたのです。

夜に泣きながら電話をかけてきた母にびっくりして、翌日私は病院にかけつけました。

父を見ると確かに顔色が白っぽくなっていて、酸素マスクが大きくて父の顔が小さく見えました。

でも父は私と会話ができ、前よりも息がしやすいと言ってほほ笑んでいました。

自分が死にかけているとは微塵も感じていないようで、退院したら父の好物のとんかつが食べたいと言うのです。

私はなぜか父は「死なないな」と感じました。病室を出ると私は母に決して父の死を考えないように伝え、「きっと大丈夫だから」と気を強く持つように促しました。

そのくせ一人で帰路に喫茶店に入った時には、自分では普段注文しないような「ヒレかつサンド」をなぜかオーダーし、父はこれをもう食べられないのかあと、ぼろぼろ泣きながら食べていたので、隣席の女性に不思議そうに見られてしまいました。

一方で父が誤嚥性肺炎を起こしたころ、病院のケアマネジャーの方(女性)が父の病室にやってきて(母も同席)、要介護認定の申請をしておきましょうと提案いただきました。父はすでに自力で歩けない状態になっており、点滴すらずっとつけたままになるかもしれない状態でした。

要介護認定されれば介護保険サービスを受けられるようになります。認定には1か月ほど時間がかかるから早くしたほうがいいとのことでした。

母は父が歩けなくなるとは思ってもいなかったので、申請することすらショックを受けていましたが、ケアマネジャーの方の親切で粘り強い話し方に状況をなんとか理解し、納得したようです。

自分の親が介護される側になるという現実に、私も心の準備ができておらずうかつだったなあと反省しました。

結局父は11月中旬に退院できました(1回目の退院)。入院前に歩けていた父は残念ながら要介護5の状態になりました。しかししっかりした頭と命があります。

病院の医師や看護師によると、もうダメかと思われた父の身体は不思議なほどゆっくりと回復してきたそうです。そして歩けないけれどベッドで自力で身体を起こせるぐらいまでになりました。
ある看護師によると父の酸素マスクはレベル2から8まで上がって(危険な状態)また2まで下がった時にはびっくりしたと言っていました。

その間父はちゃんとした食事をとることはなく、ずっと点滴でした。誤嚥性肺炎を起こした患者には、病院はかなり慎重に食事を与えるそうですが、退院数日前ぐらいから1日1回小さなフルーツゼリーを看護師の見ている前でゆっくり口に含むように食べていました。

折しもニュースで、ある介護施設職員が90代男性のゼリーの誤嚥を防ぐ義務を怠ったことなどが原因で男性が亡くなったとして、裁判所がその施設に2365万円の支払いを11月上旬に命じたことが流れていたので、どの病院も患者にゼリーを与えるのは怖いんだろうなあと感じてしまいました。

そろそろ退院しましょうかという話が出た時、ケアマネジャーの提案する介護施設への入所を私の両親は断り、祖父母の介護経験のある母が父を看るからといって、夫婦で自宅への帰宅を決めました。

父に点滴はついたままですが、在宅介護になるとしばらくは毎日、介護施設の看護師さんが看に来てくれるし、1~2週間おきに医師も診に来てくれるとのことでしたので安心です。

私もそれには異論はなく、私自身毎週1~2回は実家に帰って様子を見ようと決めていました。

ところで私は、人間は高栄養の点滴だけでも2か月も生きられるんだなあとこの時感心していました。

遺伝子組み換え食品、添加物の多い食品、それらを避けるのは大変です。料理すら面倒に感じ、外食で済ませる人も一定数いるようです。

近い将来、本当に身体に良い成分でできた高栄養グミやゼリーが出てきたら、一般の人でもそれだけで食事を終わらせるようなこともできるのではないかと思いました。

2度目の風前の灯:小腸イレウス

退院後、父は自宅で1日1回、病院で出されたようなゼリーやどろどろのおかゆをしばらく食べていました。液体の飲み物はダメで、とろみをつける粉を入れるのです。

在宅医療の医師はどんどん食べることをすすめていました。高栄養の点滴はゆっくりとでも食事の量が増えていけば、とれるようになるでしょうと医師は言っていました。

ですから食べる練習や身体を起こして両足を介護ベッドにかけて降ろす練習が父の日課となりました。

要介護認定されていると、在宅医療に関すること、レンタル介護ベッドなどの備品が退院日が決まると同時に早く決まり、退院日にすべて実家に届けられ、医師も看護師もやってきました。

ところが退院して1週間たった頃、父は夜中に急に腹痛を訴えだし、茶色いような緑のようなものを嘔吐しはじめました。腹痛は次第におさまっていったようなのですが、日に数回嘔吐がありました。

看護師は毎日看に来てくれていましたが、連休中だったせいか(看護師から医師へ状態を連絡しているとは思うのですが)医師はなかなか来てくれませんでした。

そして父が嘔吐し始めて3日目に、ようやく医師が診に来てくれたのですが、即刻救急車で入院となりました。退院した病院に逆戻りです。病名は小腸イレウスでした。

またしてもチューブを身体に挿入することになり、父は病院のベッドでぐったり横たわって寝ていました。

3日間吐き続けてきたつらさから父はようやく解放されましたが、今回ばかりは父はかなりやつれて顔色が悪く、体力も落ちているであろう状態を見ていると、母も私も今度こそ危ないかもと腹をくくりました。

しかし、しかし、なぜでしょうか、父は今回も乗り切りました。容体が落ち着いてくると、「もう一度歩きたいんだ」「うなぎが食べたい」というのです。

私は人が生きる力を持ち続けるのはどんな時なんだろうか?と、まじめに考えるようになりました。

「生きる力」の持続には何が必要なのだろか?

もともと父は極貧家庭の3人男兄弟の長男として育ち、中学生時代からいろいろなアルバイトをして両親に生活費を渡していました。1945年の大阪大空襲で家を失った病弱な母と失業の父を支えるためです。

父は貧乏なので大学進学をするつもりはなかったようですが、恩師から進学を勧められ、外語大学へ奨学金で通うことになりました。アルバイトをかけもちし、奨学金は両親に渡し、本当にお金に苦労していた人でした。
若いときからいつも海外に夢を見て海外のジャズを聴き、就職は商社に入り、海外転勤もインド、ブラジル、香港へいき、長期出張まで入れると中国、中南米と広がります。

当時は5か国語を話して仕事をしていたようです。

ほとんど家にいなかった父と一人っ子の私の間にあまり会話はなく、私の長女(父と同じ誕生日)が生まれて、やっと少しはまともな父娘の会話ができるような妙な親子関係でした。

お金に無頓着で銀行口座に給与を入れても投資で増やすことはできず、小さな家は買いましたが生命保険には入っていなかったので、父が亡くなったら家は残っても、死亡保険は入らないと母は嘆いています(笑)。

牛肉が大好きでよく焼肉やシュラスコ(ブラジル料理)を食べに行き、自宅でも毎晩のように牛肉料理を食べたがっていました。そしてもうひとつの大好きなコーヒーを飲むときは、たくさんの白砂糖とコーヒーミルクを3ポーションは入れて飲むという変な人でした。

2回も大腸がんになったのはこの辺りが原因だったのではないかと、私は考えています。

小さいころから私は両親の口喧嘩をしょっちゅう見ていたので、あまり仲の良い夫婦とは思っていなかったのですが、今回の父の入院とその顛末で、実は二人は仲が良かったんだなあと感心しました。両親が生きている間にそれを感じることができて良かったです。

私はといえば、言葉少なに父に「頑張ってね」「安心して治してね」と励ますことぐらいしかできないのですが、心の中では父が再び帰宅できるようになるまで両親のことに専念しようと決めていました。

そして父の魂が肉体を脱ぐとはまだ思えなかったので、良い状態の身体になるように毎日ずっと祈り続けていました。

祈り方はいくつかやってみました。父が入院中のひどい状態の時は、父の身体に龍体文字の「キニ」を布に書いたものをあてて、十言神呪の「アマテラスオホミカミ」を10回唱えていました。この龍体文字は健康運を良くするといわれており、十言神呪は唱えると高次元の空間がそこに開くと以前人に教えてもらいました。

そして、父のそばで陰陽師の健康運に良いとされる動画を面会時間の15分間、流していました。

また毎晩、私は風呂につかりながら両親を思い浮かべ、カタカムナの5~8首を唱え、2人にミスマルノタマがおおってくれて元気になるように願っていました。

龍体文字の「キニ」


2回目の退院と介護施設への入所

12月中旬に父に尿が出なくなる尿道狭窄がみられ、尿管挿入が施されました。退院するまでこれは取れず膀胱にカテーテルが入ったままとなり、高栄養の点滴と両方をつけたまま、クリスマス後に退院となりました。

今度は父の状態が前回の退院時よりも良くないので自宅に帰宅ではなく、介護施設へ入所ということになり、少しの間父の様子を見守ることになりました。

前述の在宅医療をお願いしていた関係の施設で入所はすぐにきまりましたが、実家からはバスと電車を乗り継いで40分ほどかかる施設で、私もほいほい通えるところではなくなってしまい、隔週土曜に夫の車で通うことになりました。

施設にはだいたいいつも看護師さんがいるので父のことは安心してお任せすることができ、家族の訪問は日中ならいつでも可能ということで、とてもあたたかい場所です。

父は施設で正月を迎えましたが、年末も年始も母や私たち一家と会うことができたので楽しい時間を一緒に過ごせました。

驚いたことに、入所してすぐに父は車椅子に座って私たちと談笑したり、長時間広間でテレビを見ることができるようになりました。1日1回のゼリー状のものの食事から、味噌汁やおもちも少しづつ食べられるようになり、入院中になかなかとれなかった膀胱カテーテルもすぐ取れたのです。

つかまり立ちも会うたびに少しづつできるようになり、入所して1か月半たった頃にはベッドから車いす、車いすからトイレへと自分でできるようになりました。

施設の方からは要介護5から要介護4への変更も可能だということで、手続きをはじめることになりました。要介護5より要介護4のほうが施設利用料が安くなるのです。

それからさらに2週間後の現在では、父の食事は1日2食になり、施設のほかの方々と似たやわらかさのものをいただけるようになってきました。施設のまかないの方が作る専門の食事は、さすがだなあと感じました。

点滴も以前の高栄養のものからだいぶ軽い内容の栄養のものに変わってきているようで、点滴をすっかりはずすことも近い将来できる気がしています。

そうです、父は1回目の退院時より良い状態になっているのです。

施設利用は費用が非常に高く、基本料、宿泊料、食事代とかかり、これに施設での医療費を合計すると、父の年金を超えてしまいます。

しかし数か月だけの利用と割り切り、その間にできるだけ夏の手術前に近い状態になってくれれば、こんな心強いことはありません。


高齢者が生き延びることに首をかしげる人がいるのも事実

父の手術前に、私のバイト先に出勤日数をしばらくの間、週4日から週2日にさせてほしいと事情を話したところ、上司からは快諾を得ると同時に、同僚たちからは「お父さんの身に万一何があっても、90歳なんだからあきらめるのよ」的なニュアンスの言葉を、思いやりとして何人かから受け取りました。

2度目の入院のときには、身内の者ですら「1回目の危なかった時にお父さんが天国にいっていれば、本人も周りもこんなつらい思いをしなくてよかったのになあ」という言葉も、なぐさめでもらいました。

確かに私は父の病院に行くたびに足取りが重く、心が泣いている時もあったし、母は私の2倍も3倍もつらかっただろうと思います。

私が一番心配していたのは、一人暮らしになった母の身に何かあったら大変だという気持ちでした。父のことは看護師さんがいつも見てくれているけれど、母がどこかでぽっくり逝ってしまっても、きっと誰もすぐには気が付きません。

実際この半年で母の背中はかなり丸くなり、歯も3本抜けてしまいました。心労が重なったからだろうと思います。


人の寿命は生まれる前から決まっているのか?

私は常々、人の寿命は生まれてくる前から決まっているのだろうか?と考えていました。

しかし今回の父のことで、やはり父の寿命は生まれてくる前から決まっていることなのだなと感じ、死期は父と天界しか知らないことだし、私たちがどうこう言えることではないと私は確信したので、自分がつらい時は先のことを不安に思うことも悪いほうに考えることもせず、ただひたすら目の前の現実だけを見て、粛々と行動していこうと自分自身に言い聞かせ、母にもそうしてもらうよう、毎晩説得していました。

父が癌手術のあとで腸閉塞や誤嚥性肺炎になってしまい、なかなか退院できなかったときに、私が天界にタロットで聞いてみたことがあります。

12月頭の父の状態とクリスマスの頃の父の状態がどうなっているかの2点です。

タロットが教えてくれたのは、12月頭の状態は「タワー(搭)」、クリスマスの頃は「天使のほほえみ」でした。

結果はそのとおり、1回目の退院後の在宅介護中にアクシデントが起きて再入院となり、クリスマス後は父も母も私たち家族も施設で笑顔を浮かべることができるようになりました。

私のタロットがあたったのか、私がタロットに言われた方向に力づくでも持っていこうとしたのかは自分でもよくわかりませんが、その時々に母に「きっと大丈夫だから」と、説得するのにかなり有効活用できたのは確かです。


一昨日父のもとに行ったときには父の大好きなコーヒーメーカーのバレンタイン仕様のドリップコーヒーと、小さな包み紙で個包装されたチョコレートひと箱を持っていきました。

退院当時は液体を飲むことが誤嚥性肺炎を引き起こす可能性があるため、ペットボトルの水すら禁止されていたのですが、施設でお茶や紅茶も飲めるようになり、のど飴もなめ始めていましたので、もう大丈夫だろうと思ったのです。

入院当初から嚥下体操のやり方を紙にプリントして渡し、のどの筋肉を鍛えるように伝えていましたが、施設でも練習しているようです。

今思うと8年前の手術後のまだ元気なうちに、父には筋トレをもっと強くしつこく勧めておけばよかったなと思いました。

私が当時通っていたジムには、85歳や90歳近いお年を召した方々が頑張って筋トレに励んでいたのです。

ただ寿命を延ばすのではなく、「健康寿命を延ばす」ことが本当に大切です。寝たきりになると自分も周りも大変な思いをしなくてはなりません。

私は手相では「長生き」と出ているので、いかに健康寿命を長くさせるかが今回の父の背中から教えてもらったことでした。

そして気が強くてしょっちゅう父と喧嘩していた母の強さが「献身」の形になった時に、このように父に生きる力を与えるのだなと感動したのです。

今は父の点滴が3月に取れればいいなあという希望をもって両親はがんばっています。

そして春に”自宅に帰宅”が目下の目標です。

その願いが叶うよう、私も全力で2人にできることをしてあげたいと思っています。

長くなりましたがお読みいただきありがとうございました。記事がどなたかのお役に立てれば幸いです。

元記事:半年で2回死にかけた90歳父。人の生きる力とはなんだろうか?高齢両親の背中で学んだこと。 - 豊かな人生ってなんだろな? (rich-life58.com)

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