帰ろう
最近どハマりした藤井風さんの「帰ろう」
本当に名曲で聴いてて涙が止まらなくて、この曲を聴きながら気持ちの整理をしていました。
今日はそこを書き残してしまおうと思います。
(よければぜひ聴きながらどうぞ😌↓w)
先月、母が定年退職になりました。
大手企業にて新卒からずっと働き続けた彼女の忍耐力に本当にお疲れ様と感謝を伝えたくて絵をプレゼントしてみました。
母とのメールのやり取りに心から安心するなんて本当に今までなかったからこそ、こんな心境になれている今がとても嬉しい。
彼女が穏やかに無理せずに生きていてほしい。
幼少期から、私の家族はみんなそれぞれに相当バタバタしていました。両親と血は繋がっているけど祖母にほぼ預けられて過ごしていたので、両親よりも祖母が私にとって母のようなもので。
ただ、祖母が認知症と鬱に落ちていく中でHSP気質な私もかなりメンタルをやれてました。
「もうこれ以上何かを心から愛したらさらに自分も頭がおかしくなる」と察知した私は(当時ここまで言語化できていなくて、感覚的に捉えていました)
両親の事を「愛さない」と幼いながらに決めて、自分の気持ちをバッサリと切り離してなんとか麻痺させて過ごした日々。あの決めた瞬間の感覚は、未だにぼんやりと覚えています。
両親は両親でそれぞれにいろいろと課題のある人達だったけど(彼らもインナーチャイルドケアがとても必要なのだと思う)
彼らが何かもめるたびに、私は怒りと怯えが混じりつつも、ある意味とても冷めていてもうこんなに崩壊してるのに「家族」という単位で一緒にい続ける意味がよくわかっていませんでした。
離婚はただの形式だと思っていたから、どうせなら早く離婚して、それぞれに望む人生に軌道修正したらいいと本気で思っていました。
家の中がめちゃくちゃよりも、それぞれに幸せそうに笑っていてほしかった。結局は私は2人の笑顔が見たいだけでした。
当時の自分を心理学的に見ても結構追い詰められた状態だったと知り、なるほど、子どもながらに自分の心を守るために本能的にあれこれやるものだなぁと自分のことながら感心してしまったw
そうやって気持ちを切り離したとしても、母が辛そうだとやっぱり私も辛くて、1番辛かったのは大学の夏休みに最大級に実家がめちゃくちゃになった時で。
帰国して家の中を見て、あまりの悲惨さにあんな状態を放置できるほどに追い詰められてる母の精神を思うと涙が止まらなくて。
そして正直この家を見て「帰りたい」なんてやっぱり思えなくて。
大人なってからも実家に「帰りたい」て心境には全くならなくて、周りの友人が楽しそうに家族の話をするたびに心のどこかで「羨ましいなぁ」という気持ちがありました。(今思うと、その気持ちを認めると惨めな気がしてなるべく見ないようにしてた)
最近心から思うのは、両親と会えるうちに一緒にゆっくり時間を過ごしてちゃんとお互いを見つめて対話ができたらいいなということ。
私たちはいつもお互いを見てるようで何にも見てなかった。
お互いにそれぞれの日々に必死すぎて、すれ違ってすれ違って、同じ日本語を話しても言葉はただの記号でしかなくてお互いを理解するには程遠いツールとなりました。
「幸せ絶えぬ場所 帰ろう」て歌詞を聴くと、私は温かい家庭に対する憧れが大きすぎて、でももう壊れてめちゃくちゃになっていく中に巻き込まれて絶望したくなくてずっと避けながらここまで来ちゃったなぁと受け止めてました。
母になっていく周りの友人を見て、心の底から尊敬する。
私は怖くて、その選択をいつも手放してきてしまったから。
たくさんいろんな形の安心や愛をもらっていたのに、結局違和感を拭えなくて手放していくのは私。
一番欲しいものほど、壊れるのが怖くてたまらないから先に静かに壊してしまいたくなるのかもしれません。
今はもう両親を憎んでないし恨んでいなくて、ただ、私の中に残っている蓋しまくって麻痺させていたズタボロな気持ち達をゆっくりゆっくり癒してあげるだけなんだろうな、と思う。
そんなプロセスの中で安心して欲しいものを手にする時が、いつかベストタイミングできたらいいなと思えるようになれました。
もう壊れない安心して帰れる家庭が欲しい。
でも本当に欲しいのは、何があってもいつでもお互いに再構築したりその都度大切にしたいことを確認しあいながら、一緒に進んでいける関係性なのかもしれない。
歌詞の中に
「全て忘れて帰ろう」
「ああ 全て与えて帰ろう
ああ 何も持たずに帰ろう
与えられるものこそ 与えられたもの」
と歌い上げるところがあるのだけれど(与えられるものこそ 与えられたもの、って言い回しがとてもとても素敵)
本当にもう全部流して忘れてしまって、私自身に既に充分に与えらてるものを、自然と周りに与えられ続けれたら、それはとっても幸せだろうなと思う😌