"不幸な自分"を自分で選んでいたわけ
引き寄せの法則、というのを聞いたことがある。
幸せも不幸せも、自分の波動に合わせて引き寄せているのだと。
自分が幸せな気持ちでいれば、その波動に乗って幸せがやってくるのだという。
理屈はわかる気がする。
私だって幸せそうな人といたら幸せな気持ちになるし、
その方が絶対に人生楽しいに決まってる。
毎日自分のかわいそうなことを訴えている人と一緒にいるのは辛い。
でもなぜか、私は不幸でかわいそうな方が人の気を引ける。と思っているところがある。
不幸せな自分の方が今を保てて安心感がある。
この人はかわいそうな私を心配してそばにいてくれるかもしれない…
ほんのりと、そんな期待を持っている気がする。
おそらく幼少期の誤学習なのだろうということはわかる。なんとなくだけど。
母も父も子育てが好きじゃなかった。
たぶんそもそもそんなに人と関わること自体がそんなに好きなタイプではないのだと思う。
時代が許すならDINKSだっただろう。
一緒に遊んだ記憶も抱きしめられた記憶もほとんどない。
ただ、泣いた時だけは優しくしてもらっていた気がする。
あんたはすぐに泣くからかわいそうすぎて叱れなかった。とよく言われていた。
その時だけは気持ちを尊重してもらえていたのだろうと思う。
誤学習からなのかなんなのかよくわからないけれど、
私は幸せになるのが怖い。
幸せになったら、恨まれることはあっても、大好きな人たちと楽しく幸せな気持ちで暮らせるという想像がどうしてもできないからだ。
実際、頑張ったりうまくいくと恨まれることがものすごく多かった。
引き寄せたのか?
私の性格や振る舞いが悪かったのか?
うまくいきすぎて単に妬まれていたのか?
理由はよくわからなかった。
そもそも自分ではあまりうまくやっているつもりはなく、まだまだだと思いながらやっている中で、
周りの人に褒められたり評価されたりする反面、
身近な人に恨まれたりするようなことが多かった。
私のやり方がハナにつくやり方だったのか?
あんな奴がうまくいくはずないのになぜ?と舐められていたのか?
考えうる原因をいくつも考えて自分責めた。
そして評価してくれる人に自分のダメさを伝えて、そんなことないよ。と慰めてもらうことを繰り返していた。
よく考えてみれば失礼な話である。
お付き合いをしているパートナーに聞く「私のこと好き?」とか、
自分のことを評価してくれている上司に言う「私なんて…」だったりとか。
その人の意見をまるで無視して受け取らずに、
周りの私を否定する人の意見ばかりを並べて、
私を信じて評価したり好いてくれる人たちに突きつけるのだ。
こんなに私のことをダメだと言う人がいる。それでもあなたの意見は変わらないのか?と
相手の意見を真っ向から否定しにかかっているのと一緒なのだから。
でも、どんな状況でも揺らがない気持ちであって欲しい。
そんな私の不安を満たすためだけに相手にそんなそぶりを見せ続け、
結果的に付き合いきれずに匙を投げた相手を嘆き、自分で自分を傷つけるのだった。
なんでそんな関係になってしまうのか?
たぶんだけど、始まりがいつも「心配」や「助けたい」から始まるからなのだと思う。
元々そこまで人に頼れる性格ではない私が、
限界を変えてぽろっとこぼした一言に心配してくれたその人は、
結果的に私の餌食になるのだった。
そうして私は「私が落ち込んだ時に人はそばにいてくれる」という誤学習を重ねて、
不幸でいる自分にしがみついていたのだ。
母はあまりに強い言葉を使って「それなら仕方ない」と納得しないと動かない人だった。
私が何年も不眠が続いており、こういう行為やこういう食材は不調につながるからやめて欲しいと伝えても、
「自分が食べたい」「自分はやりたい」「自分は言いたい」を抑えることができない。
なので黙らざるを得ない強い言葉を使わないといけなかった。
それが今でも尾を引いている。
話を聞かない人には強い言葉を。
人間関係で心を通わす方法はない。
それが私の育ちから得た結論だった。
私が不幸であればあるほど話を聞いてもらえるし、
嘘でも話は大袈裟な方がいいし、
相手の機嫌を損ねないための我慢の積み重ねも必要だし、
こんなに辛いんだから、ここまで我慢したんだから優しくしてくれるよね?の確認が必要な人生だった。
幸せになった時に、幸せが待ち構えている様子は到底想像できない。
でもいつか、幸せな家庭と幸せな環境で、平穏に暮らしたいと夢見ている自分がいる。
そういう自分になれるために何ができるのか、考えていきたいと思った3連休だった。
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