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「あなたのせい」は、その意図以上に

昔話をしていた時、思い出したように父がふと笑う。
「"○○ちゃんのせい"って、昔流行ってたよね」
○○に入るのは、私の名前だ。
あぁそっかそれは流行りの言葉遊びの一環だったんだ、と、頭の片隅では既にわかっていたものの納得する。
あの頃、私はこれに物凄く苦しめられていた。

家の中でなんでも私のせいと言って笑うことが"流行っていた"のは、たしか中学生くらいの頃のことだった。
元がネガティブな私はその頃、さらに輪をかけてネガティブで、両親の発する本気な言葉にもふざけた言葉にも傷つきまくっていた。
これは、誰が悪いとか言いたいわけではない。
私はストレスをかけてしまう状況を作り出してしまっていた部分があっただろうし物事を全て悪い方にばかり勝手に受け取りまくっていた。
母や父は私やはたまた違う誰かから受けたストレスに上手く対処しきれなくなっていただろうし、そもそも傷つけようという意図が全くない時もあった。
だけど悪いとか悪くないとかではなくて、時期や捉え方が重なっためぐりあわせによって、これはその後の考え方に大きな影響を与えた出来事の一つではあった。

カーテンが閉めるべき時に閉まっていないのも。
亡くしものが見つからないのも。
忘れ物をしてしまったことも。
その場に私がいたかとか携わっていたとか関係なく、とりあえず「○○ちゃんのせいだからね」は発動された。
みんな心からそう思っているわけではなくて、ただ決まり文句のように唱えるだけ。
それだけのことだったのに、その頃の私は自分に関係ないことも何か起きた悪いことはみんな私のせいなんだと、本気で信じこもうと自分を説き伏せていた。

ほんの些細なきっかけで。
悪意なんてない、日常のちょっとしたふざけが少しやりすぎただけで。
「私がいるせいでみんな不幸になる」「私は生きていない方がいい」は、いとも簡単に生成されていった。
そんなこと誰かに言われたわけでも、そう思う大きな出来事があったわけじゃなくても、それを信じて疑わなくなってしまうきっかけはあまりに些末だった。

ここから何が言いたいかってことはそんなにない。
だけど、言葉の持つ力を、その字面の持つ威力を、一度立ち止まって考えてみる機会を持つと、意図しない厳しさは減らせるんじゃないかと思う。
言葉を発する側だって、傷つけたくて言ったわけではない言葉で傷ついて欲しくなんてないだろうから。
そして、誰かの言うことは正解じゃないから、それを全て取り込もうなんてしなくていい。
相手はそうして欲しいなんて思ってないことだってあるし、不用意により度合いを強めて自分を責める必要はない。
自分を守りつつ相手のことも想像できたら、今よりもっとやさしい誰かに、きっと一歩また近づける。

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みみ
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