金で買えない日本ダービー 〜キーストンVSダイコーター〜
1965年、第32回東京優駿を制したキーストン(鞍上は山本正司騎手)。
競馬通ではない人の間でも一部知られている馬であり、1967年の阪神大賞典では最終直線で故障を発生し、騎乗していた山本騎手が転倒したところに、左前脚を浮かせながら3本脚で歩み鼻面をすりよせた、悲しいエピソードの馬ですね。ワグネリアンが2022年に、ダービー馬として現役中に急死したのがキーストン以来でした。
さて、悲しい話はここまでで、このキーストン、東京優駿では2番人気・単勝10倍の支持でした。多くの人はダイコーター(鞍上は栗田勝騎手)を支持していたわけである。
それもそのはず、栗田勝は山本正司の兄弟子であり、既にダービー2勝の花形騎手で、あのシンザンでクラシック三冠を制覇した翌年がこの32回日本ダービーであった。一方、山本はこれがダービー初出場。
『俺はダイコーターでキーストンには負けない。しかし、俺がもしキーストンに乗り、お前がダイコーターに乗ったら、俺はキーストンでも勝てるよ』と栗田は山本に言ったという。[1]
別に仲が悪かったわけじゃないらしい。
さて、このダイコーターにはダービー前に今では考えられないことが起きていた。
ダイコーターを所有していたのは実業家であった橋元幸吉で、シンザンの馬主でもあった。
ダービーの3週前、ダイコーターが皐月賞で2着に敗れるもののNHK盃できっちりと巻き返しを図り大本命とされる(皐月賞勝ち馬チトセオーは、NKK盃で鼻出血がありダービーを回避)。すると、なんと橋元は九州の炭鉱王 上田清次郎にダイコーターを売ってしまう。ダービーの優勝賞金1000万に対して、2000万だか3000万だかで取引を持ちかけられたようだ。
ちなみにこの前年、実は上田は橋元に対し、皐月賞の前にシンザンを買わせてくれないかと打診しており、管理していた武田文吾調教師が「売るなら、私の命を取ってからにしてくれ」と言いなんとか防いだところだったのだ。
この時の競馬界はどれだけ荒れたのだろうか、見当もつかない。
そこまでしてでもダービー馬主の名誉に誰しも預かりたいのだ。
こうして、雨が降る不良馬場の中、第32回東京優駿が開催された。
ゲートが開くと、2番枠のキーストンが、枠の利を活かして先頭に立つとそのままレースの主導権を握ろうとする。2番手にゴールデンパス3番手の内にタニノライジング、外にセエチヨウがつけるその後ろにダイコーターは位置をとる。
そのまま、タニノライジングとゴールデンパスの2番手争いはあるものの、レースは大きく動くことなく3コーナーまで進むが、ここでダイコーターが位置を下げてしまう。栗田は、敵はキーストンではないと思っていたようだ。そのまま4コーナーから先頭に入るとキーストンはあっという間に2番手タニノライジングとの間を2馬身,3馬身と離していく。ようやくダイコーターが2番手に追い上げてきた時には、既に残り200mを切っておりキーストンの優勝は明らかであった。
ゴール板を通過する前にも関わらず「キーストンの逃げ切り濃厚!」と実況されるとそのまま1着で入線してしまう。
ダイコーターは1と3/4馬身差の2着。3着はセエチヨウかと思われたところ、荒れた内の進路を選択したイチヒカル(鞍上は『雨の古山』こと古山良司)だったが、2着との差は6馬身もついていた。
実は、皐月賞では2着だったダイコーターに対してキーストンは14着に敗れていたため、みんなが楽に逃してくれてラッキーだったと山本は言うのだが。この馬がダービーの前に別の馬主に売られていたら、そう楽には逃げられなかったのだろう。
その後も上田清次郎は、ダービーに勝つことも出来ず馬主生活を終えるが、自ら馬産へ乗り出すなど競馬界の発展に寄与したため、阪神競馬場には彼の像が立てられている。
2024年に、ダービーの直前に皐月賞馬を買うって言っても、10億でもとても買わせて貰えないですよね。
50億でようやく売ってもらえるくらいでしょうか。
[1]沢木耕太郎 『敗れざる者たち』 文春文庫 2021より
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