難信の機
先日、久しぶりにお寺に行ったのだが・・
その時にふと思った。
・・何故「仏」は、衆生を救おうとするのだろう?
「仏」は人間(や生き物)を救いたくてしょうがないのだというが、その理由がよくわからない。
請願を建て、救済の「場」を作って下さった方。
衆生を救済する「方法」を作ってくださった方。
いずれもありがたく尊い話なのだけれど。
一方「神」が人間を救おうとしているという話は、勉強不足なのかも知れないが、聞いたことがない。一方的に人が神にお願いをし、それを神が叶えてくれることはあっても。
いや。ありがたい話なのですよ。
でもそれを素直に受け入れられない自分がいる。
これが、
難信の機
というものだろうか・・
仏教は「難信の法」だと聞いたことがあるだろう。
そう、その教えは、理屈では証明できない、ということ。
僕は必ずしも「エビデンス」を求める人間ではないが、そんな仏に深く感謝し、
全てを捧げ切る
ということは、残念ながら、まだ出来ない。
そう、心に
疑い
があるからだ。
何事も疑ってかかれという。
だがそれが高じて、信じるべきものも信じられなくなるのは本末転倒だ。
それはわかっている。
だが、ここに何かの「謎」があるような気もする。
それは一体何だろう。