切なすぎて連れて帰れなかった詩集
歌人の穂村弘さんが何かの本に
「吉祥寺の『百年』で気になる本を見つけたが他の本を見てさっきの本のところに戻ったらもう他の人に買われてしまっていた」
という残念なエピソードを書かれていました。
「百年」は新本も古書も扱う、わたしも行きつけのお店です。
百年には近所に「一日」という姉妹店もあるのですが、少し前にわたしもこちらで穂村さんと似た経験をしました。
天野忠さんという詩人の「夫婦の肖像」という詩集を見つけてとてもいいなと思ったのですが、そのうちのいくつかの詩が」あんまり切なくて、その日は買わずにお店を後にしてしまったのです。
でもやはり気になって、翌日お店に買いに行くと、その本はもう売れてしまった後でした。
古本は出会った時に買わないと、なかなか出会えないものがあるということを痛感した一瞬でした。
読みたいなあと思ったのですが、1983年出版の本なのでもう一般の書店では入手できず、残念ながら同じ本は図書館にもないようで。。。
ちなみに、「夫婦の肖像」は夫婦を主題にした自選詩集なので、収録されている詩のいくつかは他の詩集で読むことができます。
図書館で借りた「私有地 天野忠詩集」(編集工房ノア)ではわたしが「夫婦の肖像」で切なく感じた詩もいくつか読むことができました。
まずは、おばあさんが主人公の詩。
「ラク
手を合わせて拝んだり お辞儀したり
泣いたりわめいたり唸ったり
せんど せんど
たのまはるさかい
ラクにしたげたい一心で 心を鬼にして
たしかにあての腰紐でしめました。へえ・・・・・
そやけど
あての力では このとしでっしゃろ
どないもこないも力にならしまへん。
よけい苦しんで喘いでよだれたらして はて
おじいさんは恨めしそうな眼つきで しんどいしんどいあの眼つきで
じいーっとあてをにらまはるのどすえ・・・・
あてのほうかて
いきもでけへんほど
涙やら咳やら洟水やらが
いっしょくたに出てくるし
おまけに腰紐持ったまま どさーんと
ひっくりかえってしもうて起きられへんしまつや
かなしうて
なさけのうて
切のうて
あてはもう・・・・・・・・
どないしたら
ラクになれまっしゃろ。
こない手を合わせてしんそこから
おたのみします。
どうぞ
おじいさんをすうーっと死なせてあげとくれやす。
神さんにも
仏さんにも
おねがいします。
ついでにあても
おねがいします・・・・。」
そして、はっきり覚えていないのですが、確か「夫婦の肖像」にも掲載されていた、おじいさんが主人公の詩。
「彼岸
どっちが先か
わしか
おまえか
そら
わしの早いのがええ
わしがすんでから
来てくれたらええ
いそがんでもええ
ゆっくりしてからでええ
それまでは
たのみます
・・・・・
なあ
ばあさんや。」
そして、老夫婦が主人公の詩。
「好日
おじいさんと
おばあさんが
散歩している。
人通りのすくない公園裏の
陽のあたるおだやかな景色の中を。
おじいさんと
おばあさんが
うなぎ丼を食べている。
おじいさんがすこし残したので
おばあさんが小声がたしなめている。
おじいさんと
おばあさんが
鳩に餌をやっている。
本願寺さんの広い庭で
坊さん同志が鉢巻きをして喧嘩した庭で。
おじいさんと
おばあさんが
夕暮れの景色を見ている。
「すこし寒いようだね」とおじいさんが言う
「ええ すこし」とおばあさんがうなづく。
おじいさんと
おばあさんが
一つ蒲団の中で死んでいる。
部屋をキチンと片づけて
葬式代を入れた封筒に「済みません」と書いて。」
いかがでしたか?
以前関西に住んでいたわたしには京都のことばの詩はやわらかいけれどより切なく感じられてなんとも言えない詩もありました。
「夫婦の肖像」には切ないだけでなく心温まる夫婦の詩もあり、やはり手に入れておきたかったなと思います。
そして、札幌で過ごしている両親には日々健やかに、おだやかに過ごしてほしいと改めて思いました。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*吉祥寺・西荻窪・三鷹にはいくつか行きつけの古本屋があります。
先日ある古本屋で本を見ていると、店主さんと知人らしき方が話しているのが聞こえて来ました。
「10年経って、ようやく自分がやりたかったことができるようになりました」
コロナ禍も挟んでの10年。
日本の経済状態も随分変わりましたし、もしかしたらコロナ禍を経て「古本を買う」と言う行為に抵抗感を持つ人ももしかしたら増えているのかもしれません。(あくまでも個人の憶測です)
わたしの行きつけのお店もSNSでこまめに情報発信をしたり、お店の中で原画展などのイベントを行うなど、様々な工夫をされています。
その中で10年古本屋を続けてこられたこと、大変なこともあったと思いますが、そんな歳月を経てお店を続けてこられたことは本当にすごいことだと思いつつ、本を買って帰りました。