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微に入り細に入り説明する日本語と、簡潔で相手の想像力に委ねる英語。

こんにちは。Little Readers Clubという屋号で活動しているユウキです。

英語圏で広く実施される「ガイデッド・リーディング(Guided Reading)」という、絵本を使った英語のリーディングの指導法を日本での教育に取り入れるべく活動を行っています。

本日は、英語絵本や映画の邦訳がなぜ長ったらしくなる傾向になるのか、私なりに考察してみました(既に考察されている方が多々いらっしゃるので参考にいたしました)。
私は言語学者ではないので的外れな部分もあるかとは思いますがご容赦ください。

本や映画を訳する際に、日本語はタイトルで内容の本筋まで説明する傾向がある一方、英語は簡潔な表現を好み、読み手や聞き手の想像力に委ねていると感じます。この違いは、①言語特性(認知の違い)、②マーケティング戦略、そして③文化的背景に根差していると考えています。


Leave me alone! by Vera Brosgol

上記は、私が最近購入したLeave me alone!という絵本です。2017年、アメリカの児童文学の権威であるCaldecott賞のHonorに輝いた本です。Caldecottは、主に優れたイラストレーションの絵本に送られます。従い、Caldecott賞受賞作品はどれも目に楽しい、アート作品とも言える絵本が多いのが特徴です。

私が推進しているガイデッド・リーディング(Guided Reading)では、本の表紙から内容を推測させたり、本の表紙に描かれているものやテーマから自分の経験とリンクするものを想起させたりして、読書への興味を引き立てます。

例えば、上記のLeave me alone!の表紙について、実際に娘(英国育ちの7歳)に聞いてみると、

  • おばあさんはどういう表情?(怒っている、戸惑っている)

  • 何を持っている?(編み棒と毛糸を持っている)

  • おばあさんは何と言っている?(Leave me alone!ひとりにしてと言っている)

  • 何故だろう?(こども、熊、羊、エイリアンが描かれているから、恐らく編み物をしたいのだけど、色々な邪魔が入って出来ない、ひとりにしてほしいということを言っているのだと思う)

というような読解が成り立ちます。表紙でここまで読み解き、では表紙と本と内容が合っているのかどうか?を読んでいきます。
英語が分からないお子さんの場合は、Leave me alone!とはどういう意味だろう?ということを投げかけて、本を読んでいきます。

ところが、、です。日本語の場合は、「しずかにあみものさせとくれー!」という邦訳タイトルが付けられています。即ち、↑で娘がイラストから読み解くような内容は、タイトルを読めば想像しなくとも分かってしまいます。これが、邦訳タイトルの場合、結構な確率で起こります。英語の場合は、簡潔な表現を好むため、表面的な意味以上の内容は、読者の想像に委ねられます。

言語特性

認知の違い

この表現の違いについて、東京大学名誉教授の池上嘉彦先生(言語学)がこちらのレポートに記載されていることで説明できるのではないかと思いました。

どの言語の話者であっても,ある一つの事態をいくつかの違ったやり方で把握し、いくつかの違ったやり方で言語化する能力を有している。しかし、異なる言語の話者の間では、同じ事態であっても、それをどういうやり方で把握し、どういうやり方で言語化するかについては好みが違うということがある。

(読みやすく改変しております)

池上先生やその他の学者のみなさまが指摘するには、日本語が事態の「主観的把握」を好み、英語は「客観的把握」を好む という認知の違いがあるということです。

段々難しくなってきましたが、図解すると以下の通り。

①が日本語の「主観的把握」、②が英語の「客観的把握」です。
↑のイラストを日本語、英語であらわすと、以下の通りとなります。

(日本語)外で担任の先生に会ったよ。
(英語)I met my homeroom teacher outside.

つまり、話者が事態の中に身を置いて、当事者として臨場的・体験的に事態を把握する傾向が日本語にはあります。従って、場所や時間を表す単語(上記例でいうと、「外で」)が通常文頭に来ます。

反対に、英語の場合、話者が事態の外に身を置き、傍観者もしくは観察者として、客観的に事態把握をする傾向があります。つまり、常に話者が誰なのかを明確にする必要があります(例:I(私)だったりHe(彼)だったり)。

これを絵本のタイトルの邦訳に当てはめると、何となく言語の特性が見えてきます。

英語版『Leave me alone!』の場合は、客観的に見て、話者(me)がどうしてほしいのか、ということに主眼が置かれます。即ち、「一人にしてほしい」ということです。

一方で、日本語版の『しずかにあみものさせとくれー!』は、「しずかにあみものをしたいから」という、なぜ一人になりたいのかの背景の部分に焦点を当てたタイトルを設定し、臨場的、体験的な感覚を読者に提供しています。

マーケティング戦略

書籍や映画のタイトルは、この違いを顕著に示しています。英語のタイトルは短く印象的なものが多く、内容を想像させる余地を残す一方、日本語版では、内容をより詳細に表現する傾向があります。

これについては、映画のポスターの比較での話ですが、北海道武蔵女子短期大学 教授の尾野治彦先生のレポートで「日本語は感覚体験を重要視する言語」と説明されました(リンクを貼れず・・・)。

映画のオリジナルタイトル(英語)は単に、映画で分析的に取り上げられたモノに焦点が当てられたに過ぎず、これらのタイトルに認知主体(註:読者や視聴者)の感覚体験は何ら関わっていないのである。その意味で、英語は、「場」全体の雰囲気を表す表現を見出すことには、苦手な言語であると言えるかもしれない。
一方、日本版のポスターであるが、映画の雰囲気、ムードを表したもので、それと同時に映画に対する話者の「感覚体験」をも表しているとも言える。 これらの日本版ポスタータイトルは、「主体化」された事態把握の表れと 言える。すなわち、見る者に映画の「場面」にいるかのような感覚を与 えるものとなっている。

「絵本」と「映画ポスター」における 日本語版と英語版の違いについて ─「体験的把握」と「分析的把握」の観点から

尾野先生は、日本語を「ムード重視」と言っています。上記絵本の邦訳も、「させとくれ」と高齢者が言いそうな言い回しを使用しています。

「感覚体験」をさせることを重要視する日本語は、映画のタイトルもオリジナル版と比較するとかなり情報量に富んでいます。例えば、

原題:Up  邦題:カールじいさんの空飛ぶ家

原題:Moana 邦題:モアナと伝説の海

そして、言語特性を十分に理解した邦訳を付けないと、当然ながら、映画や本のマーケティングに影響が出ます。

上記の尾野先生のレポートの末尾に、映画『モンタナの風に抱かれて(原題:The Horse Whisperer)について、以下の通り英語のネイティブスピーカーの方のコメントが紹介されています。

The Horse Whisperer については、「人間」と「動物」と焦点がはっきりしているが、日本版タイトルの『モンタナの風に抱かれて』の直訳である Being Embraced by the Wind of Montana はあまりに漠然とした意味で、何についての映画かわからず、そんなタイトルの映画は見る気にもなれないとのことであった。
日本人であれば、『モンタナの風に抱かれて』 からは、この表現が醸し出す雰囲気を感じとることができる。要するに、 日本人にとっては、映画タイトルを「体験的」に把握した雰囲気・ムード が重要なものとなるが、ネイティブスピーカーにとっては、雰囲気・ムー ドは何の意味もなさず、映画タイトルそのものを「分析的」に把握した意味内容だけが重要になってくるということである。

文化的背景の影響

加えて、これは私の主観ですが、英語は直接的な表現が過ぎて、キツく聞こえる場合があります。上記の絵本の場合、『Leave me alone!』をそのまま訳して『ひとりにしてー!』としてしまうと、子供向けの絵本としては、ちょっと高圧的表現だと思ってしまいます。また、本の内容が想像できないことから、手に取るのを躊躇してしまう感覚があります。

英語のLeave me alone!だと、おばあさんはなぜそんなことを言うんだろう?という好奇心を掻き立てられるのに対し、日本語で直訳されると途端にシンプル過ぎてつまらなそうだと思ってしまいます。

「あみものをしたいから、静かにしてほしい」とわざわざ静かにしてほしい理由まで説明しているのも、日本語の婉曲的な表現だと感じます。理由があって静かにしてほしいと言っているんです、というニュアンスが伝わります。

まとめ

日本語と英語の表現の違いは、単なる言語の違いを超えて、文化や思考方法の違いを反映しています。
詳細な説明を好む日本語と、簡潔で分析的な表現を好み、それ以上の部分は想像力に訴える英語、それぞれに得手不得手がありそうです。

私も含めて、日本語話者が英語話者が感覚の部分を含めて理解しやすい英訳をすることは非常に高度な業ですが、だからこそ言語は面白いとも言えます。

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