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映画「ニーチェの馬」感想 / ニヒリズムの先に見るもの

「ニーチェの馬」
(2011年、ハンガリー・フランス・スイス・ドイツ合作映画、タル・ベーラ監督)<2012年に映画館で鑑賞、当時ブログで以下レビューを掲載>

旧約聖書の「創世記」に記されている天地創造、神が6日間で世界を創造し7日目に休息をとったとある6日間を逆行して作られている。

日々少しずつ何かを失っていく。
6日目に待ち受けているのはこの世の終焉。
7日目はない。

ニーチェが広場で御者に鞭打たれる馬を見て駆け寄り、馬を守ろうとしてその首を抱きしめながら泣き崩れ、そこから精神崩壊したという逸話を題材に、ハンガリーの名匠タル・ベーラ監督が描く深遠な黙示録。

154分間、
モノクロで、ストーリー展開もなく、セリフを殆んど用いない、
日々の淡々とした暮らしを長いストロークのカメラ回しで描く。

そういった作りなので、もしかしたら退屈かも?と言われたけれどとんでもない。
その画の中、
モノクロの重厚感
1つ1つが写真に収めておきたくなるような存在感
激しく吹き続ける風の音

気の効いたセリフや、ストーリーを追う事でなく映像の中にあるそれぞれの存在感を感じて欲しいという監督の言う通り、石造りの家の中に父親と娘の息づかい、動作の1つ1つがずしりと重く蠢いて全く息もつけない程の緊迫感がリアルに感じ圧倒されたあっという間の2時間半。


存在について。
世界の終わりの前に。
絶望感や焦燥感などない。
諦観とも言える感覚。
受動的ニヒリズムに陥った日々なのか。

2日目にニーチェの言葉を借りてきたかのように語る男は、この世の終焉が近いと言い、その後、馬車でやってきて井戸水を欲す集団は強欲に振る舞いアメリカへ向かうと言う。
まだまだ強く吹きすさむ風。
それでも日々の生活は変わりなく執り行われる。
同じような毎日の中に少しずつの変化、違和感がジリジリと押し寄せる。

まるでこの今、自分の居る現実を描いているようにさえ思え、涙が出てきた。

最後に光をも失い暗闇でなす術もなくなる。
世界の終末へとフェイドアウトしていく。
そこにはヒューマニズムも垣間見れないし、特別なカタルシスを感じることもない。
それが現実なのかもしれない。

余りにも沢山のものがあり過ぎて、もう本質や真理など問う人もごく僅かとなり、強欲な人間達の支配下で、皆自分の足元しか見ずに終わりの日が来る状況を飲み込めないような現実。

ずっと幼い頃から時々、恐怖感に襲われることがある。
この現実がとてつもなく静かで恐怖に包まれている様な気がしてならなくなる。
それは自分が完全なるペシミストであるということと、それが故の希望がそこに存在しているということでもあり、それがこの淡々とした主人公親子へ憧憬すら覚える。

素晴しい映画だった。
衝撃というより、こんな作品を待っていたという方が合っている。
「本当の終末というのはもっと静かな物である。死に近い沈黙、孤独をもって終わっていくことを伝えたかった」という監督の言葉。
正しくそんな音楽を作りたいと思っていたからであり、期待通り頭にあった世界が描かれていて嬉しくなった。

タル・ベーラは自身で最後の作品になると言っている。もう言い尽くしたと。
私はまだまだこれから、だな。
たまらなく創作意欲が出てきた。沢山の言葉が溢れてくる。音が鳴り始めている。



#映画 #映画レビュー #映画感想 #ニーチェの馬 #タルベーラ  

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