人生の壁を乗り越えて、振り返る。『海が見える理髪店』萩原浩
人生って、一筋縄じゃない。いろんなことが起きる。ひとつひとつが荒波のように押し寄せてきてしまって、僕なんかだと対応できないままに、波に漂ってもがいて、気がついたら岸辺にいる、みたいな人生だ。まだ30代でも、振り返るとそういう感じだった。
萩原浩が2016年に直木賞を受賞した表題作を含めた短編集だ。表題作がとても良かった。
海が見える大きな鏡がある理髪店を“僕”が訪れる。理髪店には、老齢の店主がひとりで営んでいる。僕の前にも後にも、客がいた雰囲気はなかった。美容院でばかり切っている僕は、かつて大物俳優の整髪までしていた職人気質の店主に緊張しながら椅子に座る。髪型は任せ、ハサミで切られる音に耳を傾けながら、語り出した店主の物語にじっと聞き続ける。
戦前から続く3代目の理髪店の店主は、戦後に父の死とともに、店を引き継いでいく。もともと、理容師になるつもりはなかった。戦争で店が焼けたときも、店から逃れられるような気持ちでいっぱいだった。だけど、戻ってきた。父に頭を下げて修行したが、一人前になる前に父はあっけなく逝ってしまった。そこから、ひたすら、髪を切ってきた。
大物俳優の髪を切っていたという成功の歴史から紹介されているから、どんな成功談を語るだろうと思っていたら、“僕”に語り続けたのは、失敗ばかりで右往左往して、なんとか生きながらえてきたような、格好の悪い人生だった。リズミカルに迷いなくハサミを入れるのに、“僕”の仕事を羨み、衝撃の告白までする。どうして初めての客にこんな話をするのかと思っていたら、おぼろげに、“僕”が“ただの客”ではないと示されていく。
“僕”の一人称の地の文と、店主の語りが交互に連なっていく。この店主の後悔や諦観が、人生には逃れられない壁があり、それでも、わずかな救いがあるんだと教えてくれる。不器用ながらにも生き続けていくと、じわっとした深い満足が得られる。ただ、人生にきっちりと向き合えさえすれば。それが難しいんだよ、と“僕”に対して教え諭しているように読めた。
ほかの短編も、逃れられない何かと、実際に今、戦っている人たちや戦い終えた人たちが語られていく。厳しかったが認知症を患った母、家にほとんど帰ってこない夫と離婚を考えて実家に逃げ込んだ女性、両親の離婚で慣れない田舎街に住むことになった女の子、最愛の娘を亡くした両親、父から年代物の時計を受け継ぎ、老舗の時計店に修理を依頼した男性。
特別な事件は何も起きないけれど、僕たちひとりひとりの人生は、そういうものだとも思う。そして、客観的に特別でなくても、主観的にはとても特別なものだ。向き合っていく過程と結果は、それだけで物語になり得て、平凡な日常にさっと一筋で描かれる救いの線は、ほんわりと温かい。そんなことを教えてくれるような小説だった。