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かつて尊敬していた非二元、ノンデュアリティの人達との決別


ヨーガ、瞑想などにまるでマクドナルドのセットの如く、
強引に付いてくる
ヨーガ哲学などにある、
意識(チット・サット・アーナンダ)
愛・歓び・静寂は、
ブッダの真の悟り、解脱とは全く違う、
似て非なるものです。

アートマン、ブラフマンとかも、
真の悟り、解脱とは全く違う似て非なるものです。


気づき、
意識なんて絶対にわかりません。

もし、
インド系、
非二元の一瞥、自覚の体験を自称されている人で、
気づき、意識の事を理解していると言って、
話し始めたとしたら、
それがすでに悟ってない証拠です。

気づきがあったと人はよく言いますが、
気づきは必ず見えるものであれ見えないものであれ、
対象をともなっているので、
それは考えの上での気づきでしかありません。


真の悟りの事実を言葉で長く説明するのではなく、
事実をその場で端的に指し示す事が出来なければ、
その人は悟ってません。


インド系、
ヨーガ、非二元、ノンデュアリティ的なそのようなものには、
禅の一部や十牛図などにも見受けられますが、
真の悟りではないのですが、
悟りだと称して悟りには段階があると、
論理的思考を用いて定義していますが、
真の悟り、解脱には段階は一切ありません。

ハッキリしたか、
ハッキリしていないかのどちらかです。

真の悟り、解脱の一歩手前において、
直前に予兆などは一切ありません。


思考や感情が鎮まってきたり、
死の恐怖感が一時的に強まるなども一切ありません。

一瞬でズドーンと
意の認識が完全に落ち切ってしまいます。

落ち切るって自我ではないですよ。


そもそも
非二元、ノンデュアリティの人間のほとんどの人達が
自我があると思い込んでいて、

実体がないのに
頭でこしらえた自我やら
収縮した自我のエネルギーなどといった
実体のない概念的ものをあると思い込んでいて、


もともとないものを
何とか改善しようと奮闘しているのですから、
もともとないものは
どうにかする事なんて出来ないのに、
自我やエゴや自分とやらを
弱めたり、手放そうとしていたりして、
どうにかしようと奮闘していて、滑稽です。

完全に落ち切るのは、

「この心身が自分、自己である」


と云う、
物心ついた時に認識してしまった思い込みです。

曹洞宗の道元や、
500年に一人現れるか現れないかの稀有な存在と云われている
井上義衍は、
坐禅中に意の認識が完全に落ち切ったと伝わっていますが、
坐禅中はまれで、
ほとんどは日常で坐禅の時以外に起きます。


気づきが深まるだとか、
深めるだとか、
悟りが深まるだとか、
私とは誰だとか、
大いなる存在だとか、宇宙意識だとか、
完全に真の悟り、解脱とは全く違う、
見当違いの探究なのです。


マインドフルネスとか
確かに心地よい感覚や
日常全般のパフォーマンスを上げたりするのに
確かに有効性を感じますが、
そんな目的のために、
何かを求め得るために期待して本来坐るのではないのです。


お釈迦さんが
現代にタイムスリップして来たとしたら、
ヨーガ哲学、インド系の類、
非二元、ノンデュアリティを
真の悟り、解脱ではないと否定すると思われます。



マーヤ(幻想)ではない
真の悟り、解脱の手前の
非二元、ノンデュアリティの言語表現が出来ない
一瞥ならお釈迦さんも、
解脱が起きる道なかばで何度もあったと、
惜しいと認めるかもしれませんが、
道なかばなのでさっさと忘れ捨て去り、


「解脱の道へ進む実践に励みなさい」


とおっしゃるかもしれません。


お釈迦さんが現代にやって来たら、
エックハルト・トール、
OSHO、マハラジ、パパジ、
ムージ、ラマナ・マハルシ、
ガンガジ、バイロンケイティなどの
そうそうたる非二元、ノンデュアリティの
一瞥の自覚者を
悟りの道なかばで終わってしまっている者、
または、
悟りとは全く違うものだと指摘すると思います。


非二元、ノンデュアリティの罠にはまっていた時は、
エックハルト・トールやOSHO、
ムージ、バイロンケイティ、
ラマナ・マハルシなどを
信者のように尊敬していましたが、
今ではこの人達は悟りぞこねか、道なかばの人達だと思えます。



目覚めた人、
悟った私、
解脱した誰かなどいません。


それなのに
かつて尊敬していた非二元、ノンデュアリティの人達は、
悟ってわかっちゃった
私の残り香がプンプンしており、
自己を忘ずる解脱まで落ち切っていない事は、
お釈迦さんも現代にタイムスリップして来れたとしたら、
指摘すると思われます。


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