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恥ずかしかった記憶に自分なりの答えを

私のいつもの習慣になっているGoogleのロゴチェック。今日はイラストタッチで画面越しに老夫婦と思い思いの言葉を交わす子供たち。あぁ、今日は敬老の日であることを思い出す。

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noteを眺めていると、思い思いのプレゼントを渡したといった記事がたくさん。でも私は敬老の日には取り立てて大きなイベントはやってこなかったなぁ、なんかありがとうと言うだけでも恥ずかしかったという記憶が残っている。なぜ恥ずかしかったんだろう?と理由を探ってみることにしました。

人見知り?慣れていない?いろいろ語られている「感謝」が恥ずかしいと思う訳

Googleで少し検索しただけでも、私と同じようにありがとうと感謝することがうまくできない、といった方がいらっしゃる様子。特に親など、親密な方への感謝の気持ちを言葉にうまく表せないという方も。私だけじゃないんだ!というのはちょっと安心します。
しかしその理由として、"人見知りだから"とか"慣れていないからなので、小さなことから訓練するように"という話は、そうかもな、と思うけれども核心には触れていないようなと感じてしまいまして…。もう少し原理的なところを知りたくなりました。

悪くない意味での"甘え"という解説に衝撃を受ける

恥ずかしいという気持ちに関する疑問なので、私が独学で学んでいる心理学からのアプローチを試みました。あるカウンセラーさんの記事がその助けとなったので引用いたしますと、

>赤ちゃんの時の、母親か母親に替わる誰かに世話をしてもらった頃
この時感じた親密感は「察してもらえる状況」から生まれてくるという。
>親から離れて、二人の独立した人間として生きる上で必要となるコミュニケーションの道具として、「言葉」
>「親密感」=「察する関係」=「言葉にしなくてもわかる」だとすると、「言葉」にすることで、
親密性を壊してしまうという。
>言葉にしなくてもわかってほしい」は誰しもが持っているニーズです。でも、そのルーツを考えてみると、それは赤ちゃんの時の幸せ感が欲しい、という究極の甘えなのかもしれません。
>言葉や行動で甘えられないからこそ、「言わなくてもわかる関係」が親密感の砦のようになってしまうのだと思います。

・・・予想もしていなかった「甘えたいためにありがとうと言えない」という指摘。そういうこともあってこの記事は何度も読み返しました。

愛着理論で見えてきた恥ずかしさの理由

この記事に書いてあることを私なりの理解で説明するには、ジョン・ボウルビィが提唱した「愛着理論」にある安全基地を使うことにします。

>子供は、愛着の対象者(よく知っている大人)を安全基地として使うようになり、そこから探索行動を行い、またそこへ戻る。

幼少の頃に形成する安全基地の中ではまさに「言葉にしなくてもわかる」親密な関係が出来上がるということになります。
しかし成長すると子供のニーズも多様化、養育者が察することが限界になり、言葉を使って要求を伝える・満たす関係になります。更に自立して安全基地から外へずっと出ることになったら、言葉でなければ伝わらないということになります。
しかしながらそこに、言葉にしなくても察してよ、という気持ちがあることは矛盾(これを"甘え"というのかもしれない)している。察することが親密性の証なんだから、言葉を使えば自らの手でこの親密性を壊してしまう。そう感じた時の感情が"恥ずかしさ"になって表れているんでしょう。

昨今はテクノロジーも発展してきたので、安全基地から距離が取りにくくなったことも、察してほしいという気持ちが解消されない原因の一つなのかもしれません。
※ちなみに愛着理論は安全基地での子供の行動に対する養育者の対応によって、その後の子供の内的作業モデル(無意識に選択して行う行動)に影響をもたらす、というところまで言及します。

言葉にできることも親密な証

恥ずかしいという気持ちの根源は親密にしたいからという、決して悪いことではないとわかったので安心しました。
大人になった時の多様なニーズは言葉にしないと伝わらないということは、感謝しようと思っているというニーズも伝わらないのでしょう。
感謝したいのに感謝を言葉にできていないのは非常にもったいないですね。
これからは恥ずかしいなと思った時にこそ、私はあなたと親密にしたいんだ!という自信をもって感謝の気持ちを伝えてみようと思いました。

お読みいただきましてありがとうございました!!

※私自身の理解不足の点ございましたらコメントいただけると勉強に・励みになります。

サポートいただけるお気持ち非常に嬉しいです。まだまだ修行の身、本などで学んでいこうと思います!