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2022年に読んだ本(雑記帳)

【はじめに】


今年の一月に、「年末には好みだった本ブログ書きたいな」と思っていたことを、つい先程思い出した。もしかしたらブログを書く理由を求めて、記憶を創作した可能性もある。

どちらにせよ書くのだから問題はない。問題があるのはわたしだけだろう。

2022年は、世の中にも、わたしにしても、大きな出来事が幾つもあった。そうした中で、文字を読み別の場所へと没入を深められるのは大変ありがたい時間だった。大半は精神的負荷をそのまま現実へ持ち込みはしたが、それでも起こりうる出来事を処理し続けるだけの生活に比べれば幾分潤っていた。

ここからは、潤いをもたらしてくれた、満足した、考えた本、について紹介していきたい。

①【外は夏/キム・エラン】


 喪失を描いた七つの物語。わたしは短編集を贅沢な本だと思うことが多い。一冊で多くの感情を経験した気になれるからだ。

本書においてもその特徴は見られる。同時に、どの物語も読後は似たような感覚が芽生えた。それは喪失からの先を意識させる、おそらく灰色のなかに薄く灯るあかりのような光を見た感覚なのだろうと思う。希望とは断定できない、時間を生きる存在ならばやがてくる、絶望していたとしても必ずやって来る、自分の”先”。

なかでも『向こう側』という短編は、喪失からの先を一際印象づける短編であり、内容も非常にわたし好みであった。

広義の意味合いでわたしを知っていて、かつこれを読んだ人は「うわあ、たしかにあの人好きそうだなーー」と思うことだろう。

この短編集を締め括る『どこに行きたいのですか』の最後の一文が、「た」で完了してる意味を、わたしは時々振り返らざるを得ない。

②【10の奇妙な話/ミック・ジャクソン】

タイトルのとおり、奇妙な物語が十話収録されている短編集だ。
どれも面白いには違いないが、とりわけ『地下をゆく舟』を推していきたい。

今年読んだ小説のなかで、わたしはこの短編がもっとも面白かった。
あらすじとしては「定年を迎えたモリス氏はボート造りに打ち込むようになり‥」といったところだろうか。

まず、愉快であった。

読後、意味もなく「はっはっはっ」と声に出して笑いたくなった。ユーモアとは言葉しか知らないが、「とてもユーモアに富んでいる」と誰かに紹介したくもなった。
物語の冒頭からは命に対する重みと軽薄さの両方を意識させられる。それなのに、終盤の展開は命にたいしてばかばかしいにもほどがある。この点、架空の物語における振り幅の大きさは罪だと感じた。人が一生を懸けてなんども味わうであろう波を、たった数ページで娯楽に昇華していた。

次に、奇妙であった。

わたしが一番好きなのは、土手に人が次々とやってくる場面だ。この場面、せひとも多くの人の感想を聞きたい。わたしは最初笑った。愉快だと感じたからだ。しかし読み直してみると、状況はとても愉快とは言いがたい。モリス氏は真剣そのものであり、手伝いに現れた老人たちとの協力は下手すれば感動もので、行いは人々の生活を脅かす川の氾濫だ。
明確な感情の行き先を自分次第で変えられる読書体験は、まさしく奇妙な時間だった。

最後に、哀愁が残った。

愉快とは誰かの奔放であり、奇妙とは異物の日常化だと知った。そのなかで、物語の始まりと終わりにはモリス氏の親友フランクという名前が登場する。なぜ名前だけなのかは読んでいただきたい。モリス氏のボート造りに、このフランクは一切関係がない。それでも彼にとって忘れない親友だという強い引きが、ごく短い文章で表現されている。この感情が愉快と奇妙の根底にあると気づくと、途端、物語に哀愁が香った。

③【かわうそ堀怪談見習い/柴崎友香】

この本の前に、わたしは同作者による『ビリジアン』、紹介していただいた『百年と一日』を読んでいます。そして、このふたつともを、読んで良かったと感じました。

おもしろいか、と聞かれればすぐに返事はできません。良かった、のなかには、たしかにおもしろいも含まれています。ただ、おもしろいと口にしてしまうと、齟齬が起きてしまうような気にもなるのです。だから、良かった、になります。

『ビリジアン』が、記憶という曖昧で不明瞭なきっと存在していた”時間”をまばらにつかってひとりの”人”をぼんやりと描いているのなら
『百年と一日』は、存在していた”人”や起きた”出来事”をつかってたしかな”時間”を描いているとわたしは考えています。

これらを踏まえた上で、
『かわうそ堀怪談見習い』は、”人”と”時間”をつかって、人と時間のあいだに”ずれた空間”を描いているように感じました。

空間というと大きな括りのようですが、感覚的にはもっとせまい、隙間、の方が合っているかもしれません。ただ、そのずれた広さが分からないので、ここでは空間と呼ぶことにします。

たとえば「同じものを見ても、同じように見えているかは分からない」、「コップに半分残ったジュースを、まだ半分か、もう半分か、と捉えるか」というような意味合いの言葉を耳したことがありますが、それらは空間によって変化すると思っています。早い話、時代によって、人によって、ということですが、それらをもっと柔らかく、だからこそ危うい差異として存在するのが空間です。

なんだか怪しげな話のようになっていますが、日常で生活していて、自分はどうしてここにいるのだろうと感じたことがないでしょうか?(もっと怪しくなった)。私はたまにあります。それは卑屈な意味合いではありません。知識としてのみ存在を知っている歴史や、同じ時間を生きている考えを知らない人という存在を毎日多く目の当たりにすると、自己が”いま”と”人”とをしっかり共存できているのか不安になるだけです。

この作品で書かれているのは、その不安にも通じます。時間にしろ人にしろ膨大な情報量が流れていくなかで、実際にいるかどうか分からない、でもいないとも断言できない、線から溢れた時間や人の存在。

それらと空間を、”怪談”という形で作り替えています。

ずれた空間、不安、怪談、この小説を読んでから、自己の存在がいまに合っていないかを意識してしまったら、それはもう、怪談見習いなのかもしれません。

④【そして夜は甦る/原 尞】


探偵・澤崎シリーズの一作目。

これまでハードボイルド小説を目にした経験はあまりなかった。夢中だった。のめり込んだ。すべては澤崎の動きに合わせてのみ進む文章だった。完了の「た」で終わる文章が大部分を占めていた。時間が遡ることもなかった。

読書中、わたしは澤崎だった。

絵画を美しいと感じ、依頼人の心情を察しようとしたが無理だった。顔も知らない警部を信頼し、危険な連中を煙たがり、市長と腹を探りあった。すべては私ではない澤崎という男が関わった一事件の顛末に過ぎないが、自ら読み進め、巻き込まれた、と反する感情を抱いた。真実を明らかにするのは金銭を得るための手段にすぎない、と割りきれたら楽だった。そう思えば思うほど、真実が明らかにされないことで、人間はやりきれるのかもしれない、と強く思った。

続編となる二作目『わたしが殺した少女』もこれまた面白かった。調べてみると、直木賞受賞作だった。

⑤【忘れえぬ魔女の物語/宇佐楢春】

タイムトラベルやタイムリープする物語があまり得意ではない。単純によくわからなくなってしまいます。

原理に理解が及ばないという至らなさはおいておくとしても、感覚は変わらない。
時間を行き来し解決して得られる感覚への没入が難しく、また、仮に時間を行き来してなにかを失ったとしても、挑戦できただけ良いのでは、と邪な思考が片隅に鎮座してしまう。
分岐なら自身で区別できるが、同じ道では戻れない。

そもそも僕が視聴に値する人間ではないのだろう。
そんな僕でも面白く読めたのがこの小説でした。

主人公は同じ一日を何度も繰り返し、どの一日が採用されるか分からない。

この設定を活かす相沢綾香というキャラが僕は好きです。地の文で語られる心情は決して綺麗と呼べるものではないですが、ときに急激に上下する感情は、精神だけが年をとっているはずの高校生とは思えず、展開に溶け込んでいます。

読書中、一日が経過するごとにくじを引くような小さな高揚感と、大きな失望が積み重なっていきました。これは相沢と同じ心境だったかもしれません。

終盤の各人との展開の連続は読んでいて清々しいものでしたし、その一日が採用されるか否か、また相沢という主人公の心境にもたらした影響は、邪な思考なく納得しました。

僕が思い当たらなかっただけですが、こういう時間の使い方で人の心情に魅力をもたらすことが出来るのだなと思いました。

ちなみに水瀬優花という従姉は、好きな人は好き、という陳腐な謳い文句が頭を過るくらいには、パクチーみたいなキャラだなあ、と思いました。

続編となる二巻が発売されているようなので、来年読みたいと思います。

そう思った一日が採用されるか、わかりませんが…。

⑥【さよなら妖精/米澤穂信】

この本についてはいずれ『王とサーカス』延いては『太刀洗万智』というキャラに対してなにかを書きたいな、と思っているが、それがなにかはまだ定まっていない。

読み進めている間、同作者による古典部シリーズが何度か頭をよぎった。あとから考えてみると、似た立ち位置のキャラがそれぞれにいる。そのなかで、関連付けができない唯一のキャラが、自分にとっての太刀洗万智だった。

古典部シリーズが苦味を残すというのなら、さよなら妖精は苦い痕になる。徐々に減っていくのではなく、ある日突然、思い出したように出来事の当日と同じ苦味を味わうような、そんな感覚。

どうしてそのような感覚になるか。自分が幸福の内側にいるからだ。幸福からみる幸福ではないであろうと判断した世界は、踏み出す理由となる。しかし、もっともらしい一歩は許されるべきではない。許さないのは自身ではなく、自身が勝手に判断した世界側の幸福だ。

変わるための道具には決してなりえない、変わらざるを得ない世界に生きる人。

自分がもしもマーヤに会っていたら、守屋と同じ選択をしていたのではないか、とたまに考える。考えるたび、これではいけないのだ、と自答する。自答し、太刀洗万智を想う。彼女に抱いていた印象が、終盤で変化したという事実が、自身が違う世界へ飛び込もうとするまでもなく、お前は現実すら正しく飛べていないよ、と伝えてくる。

わたしは散歩が好きだ。あてもなく歩くという行為を好んでいるから、場所はどこでもよかった。いつも近場で済ませていた。ただこの本を読んでからは、少し遠出をしてから散歩をするようになった。それはただの観光にすぎない。充分わかっている。それでもいまは、近くの知らない世界をできるだけ多く目にしようと考えている。

知っているはずの世界を知るためにも、考えることだけは止めてはならないのだ、といまは想う。

⑦【プレゼント/若竹七海】

定期的に読み返す本がある。わたしにとってこの本はまさしくそれにあたる。毎年、年末が来ると何故か手に取ってしまう。タイトルからクリスマスの赤服じーさんを想像するからかも知れない。(この一文は直近で涼宮ハルヒの憂鬱を視聴したことにより書かれています。)

こちらも短編集となっている。収録されているのはすべてミステリー小説。どの作品も見せ方に魅力があるが、わたしが好きなのは表題にもなっている『プレゼント』だ。

そもそもこの【プレゼント】という短編集は、作品ごとに主人公が入れ替わる。

最初はフリーター・葉村晶
次は小林警部補&部下の御子柴、のふたり。
以降は彼らが交互に主人公となる。

しかしわたしが最も好きな『プレゼント』では、そのどちらともが登場する。この構成はさほど珍しくはないかもしれないが、初めにこの小説を読んだときはかなり楽しく感じたものだった。いまでもはじめから読むと、最後の『プレゼント』で気分が高揚する。

今年になってまた一段と面白く感じたのは、視点の違いだ。それまでの短編では、葉村が語り手であれば一人称、小林警部補か御子柴が語り手であれば三人称となっている。だからどちらもが登場する『プレゼント』では視点が変わるごとに書き方も違っている。
いままでもなにも考えずに読んでいたが、これは視点を意識すると嫌になるわたしにとっては非常に面白い発見であり、学びになった。

なにより、この書き分けが小説内のミステリーとしての読後感に大きく作用しているのだ。

それは一重にキャラに魅力があるからだろう。若竹七海さんの他作品はそれなりに読んでいる方だが、どれも語りが面白い。この短編に登場する葉村や部下の御子柴が主人公の小説もそれぞれ存在する。特に葉村はシリーズとして幾つもでているのでそちらもお勧めしたい。

状況が複雑化しても軽妙な語りで非常に読みやすい。その読みやすさがかえって不気味な印象をあたえる。

どれも絶妙なバランスが心地よい作品だ。

【最後に】

今年はあまり読めなかったが、満足度は高かった。ここに記載していないけれど面白い本もおそらくあった。それでもこうして感想を書こうとしたときに、パッと思い付く本が以上の七冊だったのだから、特別自分には染みたのかもしれない。たかがわたしの紹介にすぎないが、このブログを機会として、どれか一冊とでも新たな巡り会いを起こせたのなら、嬉しく思う。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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