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2023年に読んだ本(雑記帳)



【はじめに】


今年は例年に比べて個人的な変化が少ない年だった。暇だった訳ではないが、感覚的には去年の延長だったように思う。昨年の出来事を並べ、どっちが2023年でしょーか?などというクイズ番組があったら予選敗退は免れない。唯一あった変化といえばビニール傘をめちゃくちゃ盗まれたくらいだろう。三本目あたりから、天気予報が雨マークの時、出かける際にビニール傘と別の傘を二本持ち歩いていた。用事を済ませ傘置き場へ戻ると、やはりビニール傘だけが盗まれており、その瞬間の軽い落胆を味わうために何度が同じ行いを繰り返していた。段々とこれは「盗まれる人」ではなく「盗まれたがっている人」になっている気がして止めた。変な人を更生させようとした無意味な行いにより変な人になっていたのだった。

そんなこんなで今年も年内に読んだ本からいくつかを抜粋し、備忘録として感想を書いてみた。あんな感じの日々を過ごしていたからか、本を読む時間、そして選ぶ時間はとても有意義であったように思う。その気持ちをなるべく正面から文字にしたつもりだ。気楽に読んでもらえれば幸いである。

①     【でかい月だな/水森サトリ】

https://www.amazon.co.jp/%E3%81%A7%E3%81%8B%E3%81%84%E6%9C%88%E3%81%A0%E3%81%AA-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B0%B4%E6%A3%AE-%E3%82%B5%E3%83%88%E3%83%AA/dp/4087465276

第十九回小説すばる新人賞受賞作。
主な登場人物は四人。主人公の沢村幸彦、同級生の中川京一と横山かごめ、そして綾瀬涼平。物語の冒頭数ページで起こる出来事の情景が何とも思い起こしやすく、それが全体の読みやすさに繋がっていたように感じました。登場人物には他に友人のヒカルや水島ヤス、沢村の家族などがいて、彼らはある兆候を伝える役割だったと私は考えています。その兆候は特定の思考や時期、またそれを拡大させたものというべきものかもしれないです。小説内でそれは「魚の日」であったり通称「キャラバン」と呼ばれています。前者は主人公が自らの感じ方からつけた名で、後者はオカルト系ブログを書く者たちがつけた名らしいです。そもそもこの正体がどういったものであるかは明確な言葉がない以上説明することはできませんが、これに巻き込まれない、つまり最後まで残るのは幸せになりたくないやつだ、という言葉が作中にあります。この不可思議な要素が、物語冒頭に起きる出来事によって変化してしまった沢村と綾瀬の関係にどういった影響を与えるのかが、この小説で書かれていることの大筋ではないでしょうか。被害者と加害者、被害者よりも被害を受けたような態度の周囲、また被害者より加害者を糾弾する周囲、その渦中にいる被害だと感じていない被害者、そして加害意識を強くもつ加害者。現実的な感覚に不可思議な要素を混ぜ込むことで、あたりまえに迎合しない本心が照らされて浮き出てくるような小説でした。
知覚する世界に虚構が混じる世界観が好みの方にお薦めかもしれません。


②     【白い花と鳥たちの祈り/河原千恵子】

https://www.amazon.co.jp/%E7%99%BD%E3%81%84%E8%8A%B1%E3%81%A8%E9%B3%A5%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A-%E6%B2%B3%E5%8E%9F-%E5%8D%83%E6%81%B5%E5%AD%90/dp/4087713369

第二十二回小説すばる新人賞受賞作。
今年最も好きでいたいと思った小説です。好きでいたい、というのは現状好きではないからという遠くからの気持ちではなく、これからもこの内容を気軽に読めてしまう自分ではいないよう日々を過ごさなければいけないという不変を願う意志の表れです。
物語はふたりの視点が交互になって進みます。ひとりは新しい家族と学校に疲れ居場所を失ったと感じる中学生『あさぎ』、もうひとりはそんなあさぎが唯一心のよりどころとしている郵便局員『中村』。しかしこの中村にも彼なりの生きにくさがあります。それがあさぎと交互に書かれることにより断片的な苦しさが集まって描かれる物語は、個々の話だけでは辿り着けなかった希望を見せてくれます。中盤のとある出来後が起こることでふたりの生活に対する感情の動きが加速しますが、私が驚いたのはそこまでを誠実に書ききっている点です。インタビューで作者の河原さんはその部分だけで一年半をかけて書いたと仰っており、どうその場面に向かうべきかの迷いも文章に表れているようにも感じます。結果としてその迷いがあさぎや中村の生きにくさを表現する助力にもなっているので、前半は落ち着きながらも読みごたえがあるように感じました。また、私はメインではないキャラの振る舞いも好きです。あさぎの友人『千夏』と中村が出会ったセラピスト『羽村マチコ』。彼女たちは、ふたりに自分が自分を生きながら他人と心を交わすその行為の手ほどきを与える役割なのではないかと考えています。特に羽村にはその側面があり、千夏は役割を持ちつつあさぎや中村と同様にもがく世界に立つ中学生でしかない目線も持つ誰しもに根底で通じる葛藤を担うキャラクターなのではないかと思います。ひとくちにまとめ上げることのできない愛という存在を忘れてはいけないと思い出させてくれる小説でした。関わりあいながら自分だけが唐突に声を高らかにすることは憚られる愛だけれども、奥底では誰もが一度は願う自己への願いはやはり生きていたいと強く想う動機になる。だから私はこの小説を来年も、その先も好きでいたいと思います。



③     【恋人といっしょになるでしょう/上野歩】

https://www.amazon.co.jp/%E6%81%8B%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%A7%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86-%E4%B8%8A%E9%87%8E-%E6%AD%A9/dp/4087741125

第七回小説すばる新人賞受賞作。
個人的にとても印象に残っています。あくまで主観ですが、大人のラブコメのような側面を要所で感じました。この本を調べると読めるあらすじでは、主人公の「僕」と同僚のひとりの女性が主役のように書かれていますが、私はあらすじに書かれていない隣人のマリーが好きです。職に就いた主人公の「僕」が職場の人間と関わり仕事や恋愛にと話は進んでいきますが、私にはその全てがマリーとの会話の合間として読めました。割合としてはマリーとの時間の方が明らかに短いのですが、日常とささやかな幸せのように交互に流れる時間はずっと読んでいたかったとすら思いました。だからこそ終わりの余韻が濃く、今でも印象に残っています。この物語は作中で映画に対する感想がいくつか出てきます。それはキャラが創作物に思う感情ですが、キャラが小説内で見せる感情の揺れ動きはそれと比較してもあまり違いが見えません。映画というフィクションのなかでの演技性が、小説における主人公の「僕」に反映されているように見えました。つまり「僕」は映画が好きだから実際の行動にも“それらしさ”が滲み出ている。その過程が職場の関係を伴う生き方とマリーとの時間の両方に生じている点が面白かったです。この“それらしさ”がラブコメを思わせたという率直な感想に恐らく繋がります。終盤のとある音すら明白な失恋を連想させたがっているようで、きっとこの主人公にはこの結末しかないんだろうなと思わせてくれるところも魅力的でした。あとは文中で多用されるダッシュ線が特徴的です。補足として言葉を足す際に用いられることが多く、それもまた説明をするというらしさに拍車をかけているようでした。『恋人といっしょになるでしょう』このタイトルの意味、あなたは分かりますか? 私は分かりません。でもなんか素敵だな、と思ってしまうところが、私という読者もまた一人の「僕」であるのだと意識させられます。総じて大変惹かれどころのある小説でした。読み返すのはこういう本だったりするのかもしれません。



④     【ラメルノエリサキ/渡辺優】

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第二十八回小説すばる新人賞受賞作。
非常に愉快でした。内容は全く愉快ではありません。けれど、読みながらにやけてしまいました。とはいえ冒頭のわずか数ページを読むのには何日かかけました。それは独白と思しき言葉から始まる物語がこの頃あまり得意ではなかったからです。しかし0章の終わりから一気に読み終えたのは、この作品が魅力的だったからでしょう。この小説はミステリー小説の皮をかぶっています、というとその畑の人間から苦言を呈されるかもしれませんが、少なくとも事件が起き、犯人を捜し、その過程で主人公が追いつめられるという場面があります。しかしこの作品の魅力はそういった犯人捜しやトリックや謎の言葉の意味当てなどではなく、主人公である小峰りなの無茶苦茶さを羅列している点にあると私は思いました。独白が苦手で~などという気持ちがすっ飛ぶくらい清々しい痛々しさを見せつけられて、読後に笑ってしまいました。一人称なのだからキャラが自分の感情に身を任せて行動するくらいで丁度よいのかもしれません。しかもそれがうまくいかなった時の反省すら主人公は他人を見下しており、かつ露骨な悪態は、いつまで言ってんだ(笑)、と思ってしまうような外道っぷりでこれまた面白かったです。絶対にあり得ないけれど、姉のスピンオフ小説が出たら買うと思う。というか読みたいです。間違いなくこちらも面白くなる。余談ですが、文庫本の表紙は主人公である小峰りなで、上記の単行本の表紙はその姉っぽいなと感じました。気になる方は是非読んでみたらもう片方の表紙をご確認ください。



⑤     【国道沿いのファミレス/畑野智美】

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第二十三回小説すばる新人賞受賞作。
あらすじにもある通り、主人公である佐藤善幸が左遷によって六年ぶりに故郷のファミレスで働くことになり物語は始まります。友人のシンゴやかつての同級生の吉田さん、新しい恋人に新しい上司などとの関わりを読むと人間ドラマだったとも言えますが、私はこの話を居心地悪く、でもだからこそ大変興味深く読みました。というのも、書かれている内容は善幸自身の家族や恋人や職場の問題、さらには友人のシンゴに関わる吉田さんも含めた重大な問題と、とにかく問題が多いです。当然幸彦も苦悩はしますが、でもどこか他人事のように考えているのではないか、と私は読みました。ここはもしかしたら読む人によって感想が変わるかもしれないです。ただ私はそのように読んだからこそ、主人公だけでなく小説内に登場するこの町の人すべてが、どこか他人と距離のある関わり方をしているなと思いました。きっとそれは他人に対してだけでなく善行が自分にもそうであるからかもしれません。どこか投げやりなのに、真摯に向き合おうとしているフリで全員が生きているように見えました。でもそれは否定的な意味合いではありません。寧ろ私の視点では、登場人物が作者の思想のもとに動いているようで面白かった。決してご都主義ではなく、むしろ都会から帰省した地元の閉鎖感や繋がりと近似性があったことからそう読めたのではないかと考えています。おそらくシンゴに関わる話によってこの町の人は距離を保った関わり合いの術を心得ているのではないかと感じました。どこか投げやりで距離もあるのに、それ自体が狭い空間の温かみを読む側に与えている不思議な読後感でした。



⑥     【叫びと祈り/梓崎優】

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教えてもらった小説です。久しぶりに読んだミステリーがこれほど満足度の高いものであると次に読む本を選ぶのに悩む、と贅沢な感想を抱きました。主人公である斉木が世界各国で事件と遭遇する連作短編集です。計五つの短編が収録されており、なかでも巻頭の『砂漠を走る船の道』は第五回ミステリーズ!新人賞受賞作だけあり、さすがに面白かったです。全体の流れが素晴らしいという話があるなかで、私が短編としてとりわけ推したいのは『凍れるルーシー』でした。斉木は仕事の一環で、修道院に眠る女性の列聖を依頼された司祭に同行します。私がこの短編を大好きな理由は終わり方にあります。詳しいことは読んでいただきたいので言及を避けますが、この短編では先ほど書いたあらすじの始まりの前にひとつの出来事が書かれています。私はそこで絵のような想像を固定したまま以降の物語を読み進めたため、終わりを鮮烈に感じました。終わりってこれでいいんだ、とそう思いました。決して投げやりな意味合いではありません。たとえば罪を暴かれた犯人がどうするかを考えたとき、捕まらないようその場から逃げようとする、最後まで自分じゃないと言葉で言い張る、洗いざらい自供し怒りを顕わにする、憎しみと懺悔が入り交じり涙する、など数多く選択肢が浮かぶと思います。そのなかでどの行動を取るかによってそれまでの犯人像と一致させる、もしくはあえて外すことにより物語全体の恐怖や悲しみを引き立たせる場合があります。この『凍れるルーシー』では、作中で視点を変えることによりこの一致と外しのどちらをも際立たせているような気がしました。
あとは『砂漠を走る船の道』もそうですが、短編であるからこそ終わりでどれだけ深く印象をは刻むかはやはり重要なのだなと感じました。伏線や裏切りのようなどんでん返しを意味していると捉えられるかもしれませんが、それだけに限りません。寧ろ謎の部分以外でどれだけ奥域を感じられるかが浸りたい余韻の有無にも繋がるのも、ミステリの醍醐味のひとつなのかもしれないです。特にこの短編は外国を舞台としているので、そういった広さを終わりで意識させてくれるからこその読みごたえもあったと思います。一時期、東京創元社のミステリを多く読んでいたのをかなり楽しい思い出として記憶しているので、またいつかそういった時間を過ごしたくなりました。ゴシック的な要素の有無や終わりかたなど新たな好みの気づきを与えてくれた良い巡り会わせの本でした。



⑦     【球体の蛇/道尾秀介】

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毎年冬になると読み返す本が幾つかあります。これはその中の一冊です。
この小説はスノードームが重要な意味を持つミステリーですが、それは物語全体の世界観を如実に表す象徴としての重要性です。主人公『友彦』が共に暮らす隣人家族の『乙太郎』と『ナオ』、そして亡くなった幼馴染『サヨ』と重要な人物『智子』。サヨの死に秘密を抱える友彦がある日ある人物に惹かれたときに物語は動き出します。この本の魅力は見えない人の内側にあります。タイトルの「球体の蛇」は人を表している、と作者が語っているとおり、吐き出された言葉の意図を他人が正確に読み取ることは不可能に等しく、またふいにつかれた嘘にひとつも騙されないでいることなどできないでしょう。しかし疑うことはできます。終盤の友彦はまさに疑いましたが、この本はそこで終わりません。疑って、白黒をつけようとはしない。プロローグは真相を知る前の友彦が、自分はスノードームの中にいるのではないかと可能性を疑っているように読めます。そして最後の場面は、〇〇によって作られたスノードームに友彦が自ら足を踏み入れた瞬間を切り取ったものとして私は読みました。そうであるなら時系列としては、迷いが生じている彼が終盤で踏ん切りをつけたことになります。過去の言葉も出来事も、今すら嘘であったとして、それのなにが悪いのか。どういった経緯を辿って現状が巡ってきているのかすら、知りえない他者の感情が混じり合っているのなら、信じたい自分の言葉を縁取って、そのなかで暮らすことを自分以外がどう否定できようか。信じたい世界すら苦しさが伴うものであったとして、その辛さは偽物であるのだろうか。そうしてまで自分の環境を変えようとした人の嘘は、どこまでが嘘と呼べるのだろうか。そういった周りへの嘘つきな信頼と、自身との決別を読めるのがこの本ではないかと思います。
私は道尾秀介の本が好きで、この本も何度か読み返しています。最初に読んでから六、七年ほどになりますが、いまだに読みたくなるので良い出会いでした。余談ですが、他に「シャドウ」という作品もお薦めしています。道尾秀介といえば子どもの書き方に特徴がある方だと思っていて、そのいやに大人を見つめる子どもずっと気になっています。大人っぽいとか子ども離れしているとかではありません。たしかに振り返れば子どもとして思い浮かべる素直な表現こそが寧ろ作り物で、自分が幼少期のときもにしたやけに大人を見つめて自分らしさを誇示する部分こそが在った姿かもしれない。とは思うものの、それにしても書かれた子どもは見つめ方が上手い。だからといってその上手さは大人の考えを子どもに無理やり足したものとはまた違う独自のもので、その違いをいまだに考えるときがあります。もし気になる方がいましたら「球体の蛇」と合わせて諸々を是非お読みください。



【終わりに】


今年はミステリーを中心に読もうとしていたが、たまたま手に取った「でかい月だな」が面白く、まずはそこから小説すばる新人賞受賞作のみを片っ端から読んでいた。キャラクターや構成は勿論、一人一作なので多くの作者による個性豊かな創意工夫が見られ楽しく、学ぶものも多かった。ただ例年のようにライトノベルや海外文学のような無作為に選んだ短編集のように種類関係なく読むことはできなかったので、来年はそれが出来ればと思っている。また読み返しによる収穫は大きいことから、こうしたブログによる好みの洗い出しもかねて、広い意味で好きな本はまた目を通していきたいと考えている。

序盤になにもない年だったと書いたが、このブログを挙げるまえに叔父さんになった。何ともめでたいことである。つい先日挨拶に伺ったのだが、私には遠い場所でのやり取りであるように感じられて物語内での正しそうな振る舞いを意識していた。もう全然アウトである。まだ産まれて数ヶ月の子どもを手に抱かせていただいたが、あまりに尊い命であり慄いた。しかし目が合い顔を綻ばせたときの感情は、これが物語として意味を持つ理由があの瞬間に納得できるものだった。書くためにも読むことに加え経験しなければならないことは案外まだまだあるのかもしれない。ビニール傘を盗まれてばかりはいられないのである。

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