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映画『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』感想~2019~あの頃の言葉。


【はじめに】

本稿は、2019年公開『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』を観て、同年に書いたブログです。今となっては書けない言葉や感情も多く迷ったのですが、これも自身の一部として認めていけたらいいな、との思いで載せることにしました。

変な前置きですが、ファンの感想ブログですので気楽に読んでいただければと思います。

上記の理由でなるべく2019年に書いた文章そのままとなっていますのでご了承ください。

それでは以下より本編始まります。
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0.【ブログの書き出し】

これは、どういう感情なんだろう。

これが「いつのまにか、ここにいる」を観た後の率直な感想です。

と云うのも、実際は一章毎に頭には言葉が溢れていたのに、映画の終わりに主題歌である「僕のこと、知ってる?」を聞いたら不思議と感情が薄れていきました。

でもこれは勿体ないなと。あれだけ感じた何かがあったのだから文字にしない手はないなと。そう思ったからブログを書くことにしました。

ネタバレを含みますのでもうすぐ発売するDVDで初見の方はご注意ください。
⚠(※2024年現在は未視聴の方)

また、ここからは敬称を略します。
ご了承ください。

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1.【乃木坂46のドキュメンタリー】

映画の序盤は 、乃木坂46にドキュメンタリー映画の制作を伝える場面から始まりました。

各々の反応は様々でしたが、カメラを見つけては笑顔でピースをした西野、そして無邪気に手を振ったのは白石だったのを覚えています。

続けて表示された文、それは
「ある日、仕事が舞い込んできた。」

そもそも、ドキュメンタリー映画とは何か。定義を探すとWikipediaにこのような文章があります。

これはつまり前提として、取材や内容に演出が施されたり、事実とは異なる事象が列挙されてしまえば、それはもうドキュメンタリーでは無いということにもなります。しかしこの映画で映像として記録されていることが全てありのまま起こった事実かと言うと、そうではありません。

例えば堀の登場シーンについては、できるだけ前作と重なるような角度で歩いてきてくださいとお願いした上での撮影との事でした。

取材対象に加えられる手が具体的に何処までを指し示しているかは分かりません。ですが、事実さえ揺るがないのであればこういった演出もエンタメ的要素としてドキュメンタリの一部に含まれているのだと思います。だからこそドキュメンタリ映画とはただ事実を列挙するだけでなく、監督やプロデューサーの案の元、多くの事実に構成を組み色付けを施したあくまで「事実性の高い映画」に過ぎないのだと考えます。

監督はこの仕事を依頼され「断ろうとさえ思った」とテロップが入ります。その理由については「アイドルのドキュメンタリー映画の真骨頂は、少女の成長譚。一般の少女たちが道を乗り越えるのに最大のドラマがある。しかし依頼されたのは既にトップアイドルの乃木坂46。」であるからと。そこから一転してこの仕事を受けようと決めたきっかけは、「レコード大賞でのインフルエンサー披露前に行っていた円陣を見て、全てが変わってしまったから」と答えています。

元を辿ればAKBの公式ライバルグループとして誕生している彼女達。既に乃木坂46のファンである僕からすれば、今やその存在にグループ名は限りなく一般層へと浸透している様に感じています。

しかしその反面、監督は「名前しか知らなかった。」と言いきりました。

これまでに乃木坂46のドキュメンタリー制作を

これだけ手懸けているのにです。

映画はここから本編に切り替わり、インタビューを行う場面。個々で行ったのは、集団では埒が明かないから。

ドキュメンタリーを撮ることは同時に、被写体を知る事。
 
だからこそ個人的には第一章の題名を「こんな集団は見た事がない」
加えて乃木坂46の仲の良さを「純粋培養された極めて特殊な集団」と表しているのは印象的です。

これらは両方とも被写体を、正しくこれから知っていく身の第一段階として表しています。

前例が無い
若しくは有っても希少価値の高い存在

喩え少し過剰でもあってもこう表現することで後述のインタビュー通り、見る側との知らない世界へ突入するドライブ感の共有を可能にしています。

BUBKAで監督本人も、僕という人間が乃木坂という知らない世界へ入るドライブ感を意識したと語っていました。乃木坂46を知らないと言い切ったのも、このドライブ感をわかり易く演出するためでは無いでしょうか。

これらの点を踏まえると「いつのまにか、ここにいる」という映画は、限りなく”ファンではない一般層”の目線を持った岩下さんが、彼女達により近い場所で撮影またはその前後の時間を通して見た乃木坂46の一場面を、”ファンではない方になるべく伝える”為、自分なりに解釈して繋げ纏めた映画なのかなと感じました。

メンバーという幾つもの点を起こった事件や関係の線で繋ぐと云うよりは、乃木坂46と云う線で囲われたグループに内包される特定のメンバーの点を見せながら「これが、僕が見た乃木坂46です。あなたの目にはどう映りましたか?」と問われているような感覚です。

僕個人としては観る前の期待と観終わった後の感情が同じ括りにはいなかったのも、全体を通してアイドル全般に通じる話も多い中、一部のメンバーを色濃く取材することで、唯一無二な乃木坂46のドキュメンタリーはなっていると思いました。

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2.【西野七瀬】

初めに、少しだけ個人的な話をします。

僕が西野七瀬という人を最初に見たのは、ハッピーmusicという夜中の音楽番組で走れbicycleを披露した回です。これが乃木坂46を知った瞬間でした。当時の僕は他の歌手目当てで録画をしていたのに、何故か今でもこの時の映像は残しています。これは次シングルの制服のマネキンも同じで、偶然録画していて何故か今でも映像は残っていました。

今思えばきっとあの頃から乃木坂46には惹かれていたのだと思います。これはもう完全に後付けですが、それでも録画した映像を見返した時に、何かこの映像を残しておきたいと思った理由があることは間違いないです。とはいえ実はあの頃抱いた感情で覚えている事もあります。それは西野の立ち位置。明らかにパフォーマンスで目立っていたから、走れbycicleの時点で1列目じゃないことに驚いて、次に制服のマネキンで更に後ろに下がったことに疑問すら抱いていました。

たとえば握手会やコンサートに頻繁に出向いてはいないので、自分は未だにファンなのか曖昧です。それでも乃木坂46を明確に好きになったきっかけはその後番組ミュージックドラゴンで「命は美しい」を披露した回を見た瞬間です。その一番の要因は命は美しいという曲自体にありますが、それでもぼんやりと思っていた「乃木坂にいる目を奪われる子」だった西野七瀬が、この時はセンターを務めていて、しかもそれまでの印象をガラッと変えるかっこいい彼女だったのも間違いなく興味を持った要因のひとつです。出だしの表情の作りといい間奏終わりのラスサビの踊りといい、その時の自分には見入ってしまう表現力でした。

なぜこの話をしたかと言いますと、過去を思い返した今、西野に惹かれた理由が、その表現力に魅せられたからということを改めて書いておきたかったからです。表現力と一口に言っても、ダンスや歌が上手いとか笑顔が良いとか具体的に指し示していけばきりがありません。しかしここで言う西野に見た表現力はそういった類のものではないと思っています。漠然とした話ですが、曲自体に彼女が溶け込んでいる気がするんですよね。これを親和性が高いとまで言っていいものなのか……。ただそれが一番引き出されているのが命は美しいという歌だと僕は思います。

どうしてこの歌と彼女の組み合わせがここまで力のあるものになるかといえば、それはきっと彼女が持つ、或いはそう思わせる儚さに理由があります。

映画では、卒業が近づく頃のリハで西野の練習には鬼気迫るものがあったと語られていました。彼女に、卒業だからという意識や自覚があったのかは定かではありませんが、この時だけでなくこれまでも、魅せることに関して「可愛いだけじゃないカッコ良さ」を彼女は見せてくれていたはず。

西野と言えば初期のテッシュ配りや乃木どこで話しを振られ鳩の話をしていたら泣いてしまったあのイメージがかなり強いですが、だからと言って弱いという印象は無いです。

よく言われている、守ってあげたくなる儚さ。

近くにいた高山は西野に対して『儚さ、切なさ、愛おしさ、性格ちょっと男より、に憧れていた。』と語っていました。その儚いと反対の意味を持つ言葉のひとつに「不変」があります。脆さや危うさや尊さという「儚い」印象を、「長年変わらず」ファンに抱かせ続けた西野七瀬は、実は誰よりも強い人なのではないかと。そしてこの儚さと強さこそが、乃木坂楽曲と彼女の親和性を一際高めているのかもしれません。

卒業後の展望を聞かれ、仕事に関しては

と定まっていない心を。
でも「卒業したら何をしたい?」との質問には

と明確に答えていたのは印象的。

監督の中で、女優としての成功=いいこと
という安直な表現にはしたくないという思いがあったからこそ生まれた対比だと思います。

また、

と語っていたこの自信の無さみたいなものが、展望を言い切れないことにも繋がっているように感じました。

そんな西野七瀬が卒業をメンバーに報告したのは22thシングルの選抜発表前。

「今シングルが自身の最後の活動となるシングルで、恐らく、出れたら紅白が最後の仕事になる。」

そう伝えられたメンバーは各々神妙な面持ちで伏し目がちで、なかでも松村は、共に基盤を築きあげてきた仲間と呼べる同期がまた一人乃木坂46から居なくなるのを悲しむ心が露骨に表情に出ていました。

いざ発表が始まると、名前を呼ばれ立ち上がり、前へ行くその時に泣きそうになっていたのが与田でした。

「何と言い出せば良いか分からなかった」

そんな理由で西野は事前に与田に卒業を伝えていなかったと言います。選抜発表後もその話題に触れることはなく、中国で一緒にいる時も「挨拶の言葉はもう覚えた?」とのやり取りだけしかしなかったとか。

テロップ通り互いに慣れない人間関係は手探りだったのでしょう。

それでも各々が各々について
「与田ちゃんは、肘置きにちょうど良い」
「私からしたら七瀬さんはお姉ちゃんで、七瀬さんから見た私は多分ペット。」とインタビューで答えているのはなんとなく微笑ましかったです。

そもそも目には見えない親密さを測るのは、他人の目が一番多い気がします。
よく一緒に居たり、喋っているのを見かける。と云ったものでしょうか。

監督が与田と西野は仲が良いとテロップで仰っていたのも、この観点からです。

映画公開より数ヶ月前、ブログで与田が
「西野さんと2人でご飯へ行ってきた」と語っていました。お下がりの服を貰った、とも。

もう今、片方は乃木坂ではありません。
けれど、関係が消滅するわけではない。

西野と与田の間に結ばれた先輩後輩という枠組みからは少し離れた曖昧な関係は、彼女が卒業したこれからも続いていくのでしょう。

乃木坂というグループが好きな方の中には卒業後には興味が無いという方もいるかもしれません。けれど、そのグループで出来た関係にこう云った後日談が加わり当時の思い出というパズルが完成するケースもあるのだなと、そして少なくとも僕はそこに魅力を感じる一人なのだなと、この映画を通して改めて気づかされました。

そう言えばこの二人の関係を表す映像として、与田と西野が青白い光の中抱きあう場面があるんですけど、あれは本当にずるいですよね。

思い入れのあるシーンはどこ?との質問に
監督も真っ先にこの場面を挙げています。

青白い光に包まれる二人は宗教画
微笑む姿は或いは西洋画に見えて思わず撮ったとも。

何がずるいってこの場面、台詞が無く観ている時点で頭に色々と巡らせるあの最中、最大限活かすためにシーンから発生した音は全て切ってある状態に外的音響があったんですよね。これから先の場面では西野と高山であったり、齋藤飛鳥の成人式後の散歩では乃木坂楽曲を使用しているのに、ここだけは違います。これがもうもう聴覚的なメタファーをこれ以上ないくらいに作用させました。

個人的にはもっと乃木坂46にいて欲しかったくらいですが、西野が言う『ずっとはやれない』との意見もその通りなのかもしれない。

だからこそアイドルとして活動していた彼女を応援出来ていたあの時間と言うのは、もう無いと思えば思うほど、思い出補正以上の貴重さを増していくように感じます。そんなことは前々から分かっているけれど、その感覚が気持ちと結びつくのはいつだって、終わった後なのかもしれない。

最近は、西野が兼ねてから出演しているレギュラー番組やモデルとして載っている雑誌や芝居をしているドラマを見る度、自分は既に乃木坂46では無い彼女の新しい可能性と魅力の渦に巻き込まれているのかもしれない、と感じます。しかしもしかしたら、それすら乃木坂時代に放っていた儚さに、今も包まれているから抱く幻想なのかもしれない。

月並みですが、そんな彼女を青春時代に知れて、そして出会えて良かったと、この映画を視聴して以降は一層思います。

そして益々、今後の活躍に期待しています。
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3.【卒業】

乃木坂というグループを卒業するといってもその心情はまちまちで、必ずしも皆が同じ未来を見てるとは限らない。映画で行われたインタビューではそれが犇犇と伝わりました。

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その、は卒業を指しています。

桜井は、今自分が乃木坂にいるのはメンバーが好きと云う理由が大半を占めているかもしれない、また、卒業を決意したメンバーに対して「引き止めることは違う」と、その理由については「皆もっと色んな事をやっていかなきゃならないから。」と想いを語っていました。

レコード大賞本番前の涙といい乃木坂工事中での途中退席といい、この想いが感情を溢れさせては縛ってを繰り返していたのだろうなと思います。

自分の気持ちより相手の人生を考えると、卒業を止めたくとも止められない。

相手を気遣って想い遣るからこそ止められない卒業を、未来へ進む度に思い返してしまうのは辛いですよね。何回も目の当たりにしているとはいえ捉え方に撚っては、過去の映像を振り返る事は自分の好きな場所に居た好きな人が今はもう同じグループに居ないのをまざまざと感じさせられることにもなります。

「実はメンバーを守らなきゃと思ったのは自身が休養したのがきっかけ」

卒コンでの言葉です。キャプテンという立場があったからこそ自身の卒業も相当に悩んだのだと思います。だからこそ重い選択として捉えていた卒業を決意した桜井さんの今後がこれから楽しみです。

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この二人はアイドルという職業に対しての憧れが一際強いイメージがあります。だからこそ今そこに身をおいている者として、卒業そのものに疑問を抱いている。

これに対して唯一卒業していく身として、西野が「ずっとはやれない。とりあえず卒業してみて、何か一つ取り組めるものを探す。」と語っていました。この言葉は二人の「実家として」「ずっと居たら」との発言とは全く見ている未来が異なっていて胸が痛くなりました。

当然どちらが正しいかということも無く、考えとして前提や目線が違うので相容れる事も無いです。だから二人は誰かの卒業に涙を流します。自分たちの考えが波及し全員が生涯アイドルとして活動する現実が、本当は起こりえないと知っているから。

高山さんの『過去を振り返っても、未来を見ても辛い。』という言葉のジレンマは苦しい。

過去を振り返る作業は未来を向くために行われる場合がありますが、未来を向こうとする度に過去が自然と頭に過ぎる場合もあります。これはきっと未来に見る喪失感を補おうと過去を無意識に振り返っているのだと思います。これは筆者である私の意見が濃くなりすぎている気があり、おそらく彼女はまた違うのでしょう。感情の沼みたいなものに陥ると何方にしても苦しみます。前を向こうが後ろを向こうが。

だからこそ高山さんの『日によって感情が違う』という言葉の人間らしさみたいなものが僕はとても好きです。

秋元含めて二人は日頃から誰かの卒業を知ると正式な発表前に何とか止めようと動くことがあるけれど、それも相手の話を聞くと折れてしまうと語っていました。

また高山さんは他にも音楽番組で『卒業していく人は卒業発表してからの儚さが増していく。それに気づく瞬間が一番寂しい。』と語っています。

初めから歌手や女優になりたくて、その前段階としてアイドルになっている場合は別かもしれませんが、アイドルをやりたいという思い一本で飛び込んできた人、そして先を模索する為、自分を変えたくてアイドルになった人ほど、その後の選択は難しいのかもしれません。

ただそれでもいつかは卒業します。此方がして欲しく無かろうが当人が疑問を抱いてようがきっとします。

その時が訪れる瞬間、二人は何を語るのでしょうか。

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それ、はメンバーからの応援を指しています。

「スケジュールをこなすことに精一杯で、自分が前進出来ているか自覚がない」

傍から見れば彼女の活躍には目を瞠るものがあります。それでも多忙を極めるあまり本人にその活躍を実感出来る程の心の余裕が無くなりつつあったのが見ていてしんどかった。

それに「乃木坂にもミュージカルにも、両方に迷惑をかけてしまっている」や「メンバーの中にも今の自分の活動の仕方を疑問に思ってる子はいると思う」と思いながら日々を練習に励み人前に立つことが、自分には想像もつかないのでとてつもないなと思います。

スケジュールの過密や覚えなければいけない事の多さで頭も体も疲労している所に気苦労があったら本当にいつかパンクするんじゃないかと不安にもなりました。その後の「大きな夢は、極限を要求する」というテロップに、加えてのしかかった重圧が表れていました。

それでも生田は、「生ちゃんが辞めたらどうしよう……」との秋元の呟きに、一言「まだ頑張るよ」と返す場面があります。その理由の一端として、京セラLiveととレミゼの開幕が被り頭がうわあっとなる中、LINEでメンバーが応援してくれるのを見返し「私にはそれが全て」だと語る場面がありましたす。

この生田の心情は、高山や秋元が語っていた乃木坂46を実家にして、との考えに限りなく近いのでしょう。

他にも先日の日経エンタテイメントのインタビューでは、仕事とは関係のない所でメンバーと絡んで心に余裕を作るとも語っています。

今の生田は乃木坂を、少なからず活力を得る場としているのかなと思いました。

負担は増えるけど、居場所も増える。

「乃木坂の現場にいかなきゃって思う。」は

当然仕事だからですが、かといってそれだけでなく、自らを鼓舞するためでもあるのかもしれません。「乃木坂にいたい気持ちが年々強くなっている」も、メンバーとの関わりで自分がどれだけ救われているかを実感したからこその言葉に聞こえました。

新幹線での移動シーンは上空からドローンで撮影しているだけあって、大阪~東京間の移動を壮大に乃木坂~外仕事で比喩していたのは個人的には素敵で好みな映像となっていました。

話はズレますが、、桜井の卒コンを映画館で見ていたら途中で突然生田が号泣している様子がスクリーン一杯に映し出されて何事??ってなりました。後であれはOGを見つけて泣いていたと教えてもらったのですが、その時に浮かんだのが映画で『歴史の重み…』と涙を零していた姿です。

生田が輝いている姿は、傍観者である同年齢の私にも元気を与えてくれます。両立の心配は依然としてありますが、それでも今の生田を観ていきたいです。

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4.【レコード大賞】

映画で印象に残った場面は幾つもありますが、中でもこれを傍観者でしか無いこちら側が見て良いのかな…と思ったシーンがあります。

それが、レコード大賞前日に実際のスタジオで行ったリハの映像。

これよりも前に練習していた中で振付師のseishirouさんはシンクロニシティについて『この歌は人と人との心の繋がりが表される曲』、ダンスについて『もっと想像力を働かせて踊って欲しい』とメンバーに語っていました。

その後迎えたスタジオでのリハーサル。対象曲であるシンクロニシティを流れで通した後、メンバーとスタッフや講師とモニターでその映像を確認します。

この時、西野さんは涙を流します。

両脇にいた衛藤さんと秋元さんが先に瞳をうるませていたのに感化せれた可能性もあるかもしれないですが、あれはきっと本人も‘’ 最後 ”を意識したからこそ流した涙だろうなと思いました。

この考えは、映像を確認し終えた後に、泣いちゃう、と言いながら感情を隠す為おどけた松村さんを見た影響もあるかと思います。

ただ誰もが「西野の卒業」は意識していました。それだけで

・誰もが誰かを想いあう
・歌詞を体に取り込む
・集団で紡ぎ出すアート

と云った教えに沿う流れが出来上がったように感じます。

映像を見ながら思いを馳せて涙を流す西野。そんな彼女に寄り添い
同じく目を潤ませる衛藤と秋元
見とれるように映像を確認するように齋藤飛鳥は、少し微笑んでいるようにも伺えました。
そして感情を隠そうとおどける松村
それを見て爆笑する白石。

同じ場所でそれぞれ異なる感情が同時に流れている空間は、まるで教室の一場面のようでした。

白石も松村も表には出さない感情が多いイメージがあります。多かれ少なかれ、人は内面を外に吐き出し初めてそれがどのような類の感情かを知り、またそれを周りと共有する事で心を和らげたり感情を薄くしたり広げたりするかもしれません。

乃木坂の場合は、相手が本音を言わずとも『~は今、~だろうからそっとしておこう』とか『~だから声をかけに行こう』と、声に出さない水面下での意識的な繋がりが出来上がっている気がします。これがごく自然な振る舞いとして成り立っているグループとしての在り方は、共に過ごした時間の濃さを表していて、これはもう人柄と期間が繋いだ賜物なのかもしれません。

そして、これこそが
純粋培養された特殊集団と比喩される絆に繋がってるのだと思います。インタビュアーを気遣ったり初めからその様な気遣いに長けた人が集まったのか、一人そういうメンバーがいることで他のメンバーにも移ったのか……。

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リハを終え、いよいよレコード大賞当日。

数人で本番何時間も前から廊下のガラス前で踊りの最終確認をしていると、時間が経つにつれて自然と全員が集まって来ます。最終的にはここで円陣を行うのですが、この段階でもう白石が、スタジオに向かう段階では桜井が号泣していました。後に桜井はこの時の感情を「メンバーへの愛が溢れて苦しかった」と語っています。

円陣をした後は同じ緊張に包まれたもの同士の独特な和気藹々とした空気が漂っていましたが、そこで齋藤飛鳥が、隣から西野を眺めていたんですよね。視線に気づいたのか西野がチラッと齋藤飛鳥を見た瞬間に顔を背けたので、決して眺めていた時間は長くないけれど、その後ガラスの方へ向くのも含めて刹那的な切なさがここに凝縮されていました。

本番前、高山と大園が髪の毛の乱れ具合を想定して遊んでいた光景は和みました。あと秋元発信で行ったていたミニ円陣。確か生田、白石、西野、秋元で行っていました。基本的に前三人はその後も楽しそうでしたが、秋元は悲哀に満ちた感情が今にも涙として溢れてしまいそうな表情をしていました。映像と同じくあの和解の時期を思い出していたのかもしれません。

そして本番を終え再び局内の廊下に集まります。緊張から解放された影響なのでしょうが、殆ど全員が泣き笑いに近い状態でした。白石が西野に体重を預ける形で立っていたのが印象的です。本番では泣いていなかった松村がここでは泣いていたので、本番は意識的に我慢していたのかと思うと驚きました。

seishiroさんは本番前に皆へ向けて「ビジョンが無いと共有出来ない」と、そして披露後には「みんな想いあってたね。」と言っています。この時のレコード大賞の映像を今見返すと、皆が人と人との心の繋がりを表現するために誰かを想いながら踊ったからこそ、この感情の共有が第三者を巻き込んでいたように思えました。ここで言う誰かはきっと西野で、第三者はこのパフォーマンスを見ている人、私もそうです。

この場面で印象的だったのは、齋藤飛鳥と大園桃子です。

二人については

映画第二章、「彼女たちはなぜ泣くのか」にて少し語られていました。

大園から安心感を求めて
齋藤飛鳥に近づくことも

傷ついた大園の元へ
齋藤飛鳥が寄り添ってあげることもある。

そんな大園の言葉はこの映画内だけでも煌めきを放つほど純粋で、もはやそれは鋭く難解さも持っています。

その例として大園と監督のあいだでこのような会話がなされます。

きっとこの会話を殆どの人がする事無く生活を送ります。それは多くの人が誰かと「強くなる必要が有るor無い」と話しをする前に慣れしまってその寂しさが麻痺するか受け入れて強くなったフリをすれば自分が楽だと自発的に気づくからです。けれど大園は自分が辛いにも関わらず感情に抗いません。自分から感情の自己防衛への道を断っています。

他にも。

ここから大園は自ら辛い道を防具を付けずに歩いているのが分かります。これも極端な話、自分を偽ってしまえば楽なはずですが、それでも彼女は素の自分が否定されるかもしれないのに着飾ろうとはしません。

それが何故かと云えば本人も言っている通り「気持ちを偽れない」からであり、そしてそれを大園は「大人になれない」と表現します。

ここから彼女は「自分の気持ちを偽る=大人になる」と捉えているのが伺えました。私は、大園が言う大人になるとは「自分が傷つかないために諦めている状態」を指しているのだと思います。ここでいう諦めるとは、自分の気持ちを諦めること。そして自分の気持ちに嘘をつくのと同義です。

彼女は、自分にはそれが出来ない。つまり、自分の感情を諦められないから「大人になれない」と自分について語ったのかなと思います。
また、この中には「誰かに期待(もっと云えば信頼)を持てない=期待を持つのを諦める」という考えも含まれているのではないでしょうか。これは齋藤飛鳥にも通じているように思います。期待していなければ裏切られることもない、だからそもそも人に期待をしない、という気持ちから働く自己防衛の一種です。

話は戻ってレコード大賞の披露後、そんな大園が『乃木坂も悪くないなって』と、現状に肯定的な発言をしました。

この時、抱きつく齋藤飛鳥の心情は少しの罪悪感と安心感だったのだと思います。普段から傍にいるからこそ自分が「乃木坂46で良かった」と思わせてあげられたのではないかという罪悪感。そして、多少なりとも大園を知っているが故に、全く予想していなかった言葉への安心感の様な温かみが見えました。

その前のやり取りで大園が『何か……何か……』と言いかけ、齋藤飛鳥が『何?』と聞いたこの問いかけが、私には「どうしたの?」と同じで、少し心配を含んでいたように聞こえたので余計そう感じたのかもしれません。

結果としてシンクロニシティはこの年のレコード大賞を受賞し、映画第五章は終わります。映画を見た後この二大会分のレコード大賞を見返したら、インフルエンサー受賞後の披露はどちらかと言うとまだその現実を信じられていない呆然とした状態で、シンクロニシティ受賞後はその感動が身に染みながらの披露に見えました。

多くの人が涙ぐむ中、松村が披露の段階では最後まで笑顔で終えるのも印象的です。白石は受賞前よりも「ふいに気づいたら泣いていること」の部分に感情を荒々しくぶつけていて、生田はとにかく華麗でした。西野は全体的に笑っていたけどその笑顔はかっこいいもので、特に最後、ハモレが3回続くその3回目の表情は清々しくてゾクッとします。

続いて映画第六章目。僕は映画の中でこの章に一番込み上げるものがありました。シンクロニシティが受賞直後ということもあり高揚感に包まれる中、盾を持って写真を撮ったりふざけあったり談笑したりと幸福に満ちた映像に合わせて「帰り道は遠回りしたくなる」が流れます。

何故ここで受賞したシンクロニシティでは無く、帰り道は遠回りしたくなるをあてているのか。確かこの映像の最初の方に、インフルエンサー受賞直後の映像も僅かに入っています。一年越しの大会、その自然なフラッシュバックによって、過去を過ぎらせながらもシンクロニシティで受賞した今の映像を帰り道は遠回りしたくなると共に流す。

この一連の流れをどういう意図で作成したのか

そのひとつの答えは映画第六章のタイトル《最高の帰り道》で簡潔に表しているのが個人的に大好きです。反対に後半で西野の卒コンの映像が流れる際には、帰り道では無くシンクロニシティの部分を使用しているのも粋な演出でした。

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5.【時の流れ】

いつのまにか、ここにいるという映画において”齋藤飛鳥”は異色の存在でした。

彼女は成人式へ行こうとしたきっかけを、それが親孝行になると考えたから。同窓会への出席は、ただの好奇心から決めた、と言います。

式終わりに車の窓から知り合いの顔を探していたのが、一人だけ別の場所から式に参加していたからこその動きだと思うと、少し切なくもなりました。

ひとり散歩をしていた時の表情は過去や地元に思いを馳せ、それが腑に落ちてスッキリした顔にも見えましたが、やっぱり何処か物悲しかったです。

二次会の会場に行く車で
どうしようか葛藤して
エレベーターを上がってから友人に会い
会場に入って周りの人と喋る。

この一連は最初に述べた「ドキュメンタリーとは事実性の高い映画に過ぎない」という定義から外れていたように思います。正直、カメラを回しているのが不思議なくらいの映像で、でも、カメラを回していなかったら彼女が二次会に行っているのかを考えると微妙です。

そういった意味では、カメラを向けられているからこそ出席できた同窓会、という用意されたきっかけと、演出のない時間とで、正しくあくまで事実性の高い映像ではあったのかもしれません。

体育教師に言われて無理にやった挨拶。その最中の同級生の掛け声「見てるよ、凄いね、レコ大おめでとう。」二次会を途中で抜けて車に戻り「疲れた。」と言った後にぼそっと付け足した「でも皆、見てるよって……」という言葉が無性にもどかしかったです。

やっぱり全体を通してあの空気感は見ていて苦しく、胸に何かがつっかえるような違和感がありました。ただこれは、同級生側も対応が難しいとは感じます。多くのスタッフやカメラを引き連れて来て早々に「帰りたい…」と言われてしまうと、周りは彼女にどう関わるべきなのか分からなくなる気はします。そしてそういう状態すら齋藤飛鳥は分かっていて、でもだからこそあのように喋れたのかなとも思いました。

本人の心境も周りの空気感も含めてあまりに特異な空間でした。傍から見てると二次会にカメラ何か付いて行ったらせっかくの場が楽しめなくなるんじゃないかな、とどっかで勝手な考えも持っていたので、観ているうちにそういった類の話では無いと気づいて恥ずかしくもなりました。

齋藤飛鳥は、自身が学校を好きではなくなった理由はなくともきっかけはあると語っています。それは母親の事に関係があるらしいのですが、BUBKAでのインタビューを読む限り、こういった間接的な要因は自分が幼ければ尚更消化しにくく、自分のこと以上に尾を引く経験になるのかもしれません。

それでも成人式を「かつての自分と向き合う通過儀礼」と例える彼女が、苦手な地元と仲直り出来るきっかけをこの映画で作れたのなら良いなと思ってしまいます。

終盤、エディンバラへの旅行に同行した場面での言葉は、多少違うかもしれませんが割と鮮明に覚えています。

これは本屋を訪れた時にどうして楽屋の外で本を読んでいるのかを聞かれたときの言葉です。以前からインタビューでこう答えているのは知っていましたが、‘’外に一人”の選択肢しか無いと思った上で、一人で居たくて居るわけじゃないと云うのは複雑ですね。アナザースカイでの言葉にも似た息苦しさを覚えました。

将来を聞かれた際の言葉には具体的に何かを示す単語は出てこなかった気がします。明確にいえば変に取り上げられるという思いもあってなのか今はまだ言いたくないだけなのか分かりませんが、いつかは本人の口から聞きたいですね。

自分自身を定期的に見つめてしまう人にはこういう思考が巡ってきやすいのだと私は思っています。ここでの一人称の強さがそのまま自己嫌悪の度合いを表していると思うとあまりに悲しいですが、この考えがあるからこそ、その分バネのような跳ね返りを期待する場合もあると語っていました。

安易な共感は控えた方が良いのでしょうが、この考えは理解が出来ます。

続けざまのテロップは、どれも大園にも見えた傷つかないための自己防衛が根底にあるように見えました。

でも、それだけじゃない気もします。

自身への興味が無く展望も無いから達観しがちだけど、ビビリだから周りの反応も気になるとも語っていました。そのはっきりと線引きできない感情の曖昧さみたいなものも彼女の魅力なのでしょう。何より本人もその線を模索しながら言葉を紡いでいる事で人間らしさが表面化していて、より見ていたくなります。

ここに限らず、監督の質問も個人的には楽しめました。近寄り過ぎず遠回りもしないあの質問は、リアルタイムで関係を構築している人にしか出来ません。

とりわけ「原罪でもあるんですか?」という問いかけは、過去を嫌う理由を「綺麗なものでは無いから」と語る齋藤飛鳥の負い目を感じているような考えや卑屈な面であったり、感情を言葉にしたらすぐ否定したがる感覚を言語化していて目から鱗でした。

エディンバラでのインタビュー終わりに監督は近くにあった花を彼女へ渡します。そして毛布をかけられ項垂れる訳ですが、この閑話があることで、やはりドキュメンタリーと言えどカメラを向けられている撮影の時間が確かにそこにあったのだと伝わり一気に現実に戻されました。それでも語られた言葉に嘘は無く、極力今の気持ちに忠実に言葉を引きずり出したからこそあの撮影終わりの清々しさみたいなものがあったのだと思います。

見方に偏りがあるかもしれませんが、僕としては前半に楽屋の袖で壁に凭れ本を読む姿や、輪から外れて廊下を歩く姿といった一人の場面が多く盛り込まれていて、後半では一転してメンバーと楽しむ姿等輪の中に溶け込む場面が多く入れられていたように感じました。ここで行われているのは印象操作と云った悪意の産物では当然無く、寧ろ事実をわかり易くするのを狙った順序の入れ替えだと思われます。

余談ですが、言い切る強さが大事であることは重々承知しているつもりでも、私は同時にそれが苦手でもあります。言い切る事が苦手と言い切る事のも可笑しいですね。これは心の弱さでもあり、しかしあらゆる可能性を考えたら言い切れる方がどう考えてもおかしいだろうという歪んだ考えの影響でもありますが、一番の理由は言葉で全てを伝えられるとは思えないからです。

そういう点で齋藤飛鳥の言葉は伝わらないことを意識したそのまま誰かに話をしている様に感じられるので、個人的に聞いていて安心します。良い意味で心に重く残らない。それは確固たる意志を無理やり言葉に当てはめていないからなのかと思います。その行動を良いと表現するものなのかは正直いまでもよく分かりません。或いはこれは、彼女の感情の揺れや変化の過程を、自分が都合良く捉えているのだけなのかもしれません。

話はズレますが、だからこそSing out!の選抜発表後の言葉は耳に残っています。ちなみにこの時に語った変わろうとしている事については、未だ具体的には公言していません。ただ、コミュニケーションの取り方やメンバーとの関わりも、その中に含まれているとは話していました。”それ”を変えれれば、自ずとそちらも変わっていくらしいです。

これに加えてBUBKAのインタビューでは「西野と卒業前に将来について話した」と、また秋元は「飛鳥はなーちゃんが卒業したら変えたいことがあると言っていた」と語っていたので、もしかしたら将来について話す中、踏み出すきっかけとなる会話が二人の間にあったのかもしれません。

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本作「いつのまにか、ここにいる」において

齋藤飛鳥が異質なら
与田祐希はそのものです。

西野を描く上で欠かせない存在として取り上げられていた彼女は、実家で祖母が作ってくれていたファイリングを眺め突然涙を流します。この瞬間の心情は正しく、いつのまにか、ここにいる。

福岡の実家は雑誌の発売が東京と比べて数日遅い。加えておばあちゃんは「もう何もしてあげられることが無い」と言います。オーディションに受かってから続いている目まぐるしい日々にもまれている内にいつのまにか立っている今の場所は、地元から物理的にもそして精神的にも距離があり、それが成長でも寂しさでもあるからこそ涙を流したように見えました。

西野の卒業に伴い、ほんの一瞬自身の卒業も過ぎったという彼女。この映画を見るまで彼女のことを殆ど知らなかったので、その内面に蔓延る負の感情が今後彼女自身ををどう変えていくのか気になってしょうがないと思ったのを覚えています。

一歩間違えば何も先を見出せ無くなりそうで危ういというか心配でもあるけれど、その分何か新しい目的や意義を今の仕事で見い出した時に化けるのではないかと言う想いが映画を見て時間が経過した今は一際強まっています。

齋藤飛鳥と与田祐希。監督は後日、映画でこの二人にスポットを当てた理由について「外からやってきた僕が最初に目にして引っかかったから」と語っています。

それだけで映画の比重を決めているとは考えにくいですが、最初に目を引いたというのはあながち嘘ではないのかもしれません。少なくとも僕は二人の心情をもっと知りたいと思いましたし、彼女達を通してより乃木坂を見たいとも思えました。

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6.【エンディングと他】

映画の最初の映像は「齋藤飛鳥の背中、飛ぶ鳥、空」でした。

これは終盤のエディンバラへの旅行に同行した際のシーンの一部です。

映画では他にも、
与田祐希が外で撮影をしている最中
西野と高山の小旅行の最中に
遭遇した飛ぶ鳥を眺めるシーンがあります。

これらに共通している鳥が何を表しているか。飛ぶ鳥がそのまま齋藤飛鳥を意味している場合、空と雲はこちら側が勝手に創っている彼女なのかなと思いました。その無制限の幅を自由に飛びまわることで、イメージ通りにも意外性にも繋がる奥域の姿を、自分の知らない人にも見せている状態を比喩しているのかなと。

ちなみに監督はこの鳥に関して、決して飛鳥の暗喩という意味合いだけでなく、強いていえば旅立ちの予兆を象徴した西野を比喩していると答えていました。

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映画では触れられていませんが映画を通して思い返した事が幾つかありますのでここではその部分について少し文章を書きます。

《Sing out!》
この歌自体の良さについては”乃木坂”の捉え方や視点の違いで大きく変わりそうですが、少なくとも僕はこの歌でセンターを務めている齋藤飛鳥の姿が好きです。

というのも、「仲間の声が聞こえるかい?」との歌詞。これが映画を通して
・落ち込む大園への齋藤飛鳥からの言葉
・過去の自分へ、今の自分からの言葉
・或いは他のメンバーと積極的に関わりを持ち始めたきっかけの言葉
にも聞こえるからです。

ただもし仮に『仲間の声が聞こえるか?』と聞いた所できっとその質問に笑って誤魔化すのが彼女な気はします。きっと、答えません。それでも私が知らない領域で、彼女達は無自覚に繋がってるのだと何処かで思ってしまいます。

これは私が齋藤飛鳥に少なからず惹かれていた時期があるから正常な判断が出来ていないのかもしれないけれど、この位はそういった感覚で居ることが心地好いので今はこれで良いなと思っています。レコード大賞でのSing out!が楽しみです。

《シンクロニシティ》
同様にこの曲でセンターを務める白石にも、+αの魅力を感じます。

白石は今回に映画ではほとんど取上げられていません。けれど印象に強く残っている場面があります。

それは西野の卒コンで心のモノローグ披露前にしていた抱擁もですが、個人的にはシンクロニシティ披露時での彼女の表現です。あれは上手いから魅了されるといった類のものではなく、感情のぶつけ方で心をえぐってきました。

レコード大賞前日のリハの確認後松村が泣きそうになっておどけたのを見て爆笑していた姿と、当日になって今度はああして彼女自身が涙ぐむその差に、見る側の心をえぐる何か隠れた感情があるのだと思いますが、それが何かは最後まで分かりませんでした。

ただ彼女が卒業する時、その失われたものの大きさに悲しむと同時に、これ以上魅了されてからいなくなってしまったら……と一時の安堵を抱くかもしれないなと思いました。それ程に白石の魅力は底が知れないかも。その一端がシンクロニシティの「ふいに気づいたら泣いていること」で片手で顔を抑えるあの部分に溢れているように僕には感じられて仕方ありません。

冒頭のインタビューで聞かれていた
「白石さんは何を目指してるんですか?」との質問。語られなかった答えを、いつか聞いてみたいですね。

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7.【最後に】

ブログを書き終えた今改めて聞くと、「僕のこと知ってる?」がエンディングである意味は大きいと感じます。特に最後の「街に貼られたポスター 誰かに似てるような…」この歌詞から読み取れる、語り手である当事者の時間的な距離が私は堪らなく好きです。

少し前の自分も嫌と語る齋藤飛鳥でいえば
”今の自分が眺める数分前の自分”に

地元に帰るのを野生に帰ると例える与田祐希でいえば
”デビュー前の自分が眺める遠い今の自分”になります。

或いは互いに、映画の軸としていえば
”今の自分が眺めるいつかの自分”。

一番で記憶を失っているはずの語り手が、昔の街に戻って今の自分を眺めていると想像しても面白い。映画に関してカタルシスを引き起こしたのは曲調が主な要因だとは思いますが、この歌詞は乃木坂映画としてひとつの到達点ではないかと。

知らない街が芸能界
傍観者たちがこちら側を指しているのなら
街に貼られたポスターには
”いつ”の自分の顔が載るのでしょうか。

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最初にドキュメンタリーの定義について述べたのは、本来のドキュメンタリーと【いつのまにか、ここにいる】との違いやズレを意識したかったからです。何処かで邪な考えから外の世界を意識して、見ている最中に「これは演技をしているのでは無いか?」と思えてくる。見方が悪いのは重々承知していますが、僕にとってドキュメンタリーとはそんなのめり込むことを許してくれない映像作品でした。また、全ての映像作品は演技の幅を含んだドキュメンタリー作品だと思っていたとも言えます。しかし【いつのまにか、ここにいる】という映像作品に関しては、被写体がカメラを向けられることで無意識に後々誰かに見られることを前提に話してしまう演技性のようなものを感じなかった。結果として初めに定義を知りドキュメンタリーの幅を見直せたからこそ、ようやく乃木坂46のドキュメンタリーについてにこうして考えを巡らせることが出来て満足していますし、何より楽しかったです。

余談ですが、私は橋本奈々未という人が好きでした。彼女が芸能界を引退した後、それまで彼女が在籍していた乃木坂46を見るようになりました。ここまでに書いたとおり、それ以前から乃木坂46の存在を知ってはいたものの、見ようとしたきっかけはやはり橋本奈々未だったのだと思います。言ってしまえば喪失感を補うため、それまでの近しい場所を眺めていた可能性すらあります。だからずっと同じ熱量で応援していた訳でもなくて、もしかしたら私は乃木坂46のファンではないのかもしれません。それでも確かに、乃木坂を心の拠り所として過ごしていた日々はありました。映画で改めて思ったのは、出会えて良かった。

応援するって口で言うより難しいことだとは思いますが、自分の負担になっては拠り所ではないので、これからもたまに行く末を見守りつつ一喜一憂して陰ながら応援して過ごしていきたいです。

だいぶ脇道に逸れましたが、このブログを読んでもう一度映画を観たいと思う人がいたら嬉しいなと思います。

全体を通してふわふわした文章を最後まで読んでくださった方、居ましたらありがとうございます 。

それではこの辺で……。

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