随筆:「あそび」 〜遊びという言葉の遊び〜

あそび

ひらがなで書いてみると,柔らかい言葉になる.そして,忙しい日々を送る私たちの中にすっと溶け込み,憧れを抱かせる響きを持つ.同時に,何か後ろめたさを覚えるような言葉である.
「こんな面倒な仕事から解放されて,早くどこか遊びに行きたい」とは,現代人の大半が日がな考えることだから,そういう憧れや後ろめたさと結びつくのも不思議ではない.

さて「あそび(遊び)」という単語を,例のごとく辞書で引いてみよう[1].

①あそぶこと。なぐさみ。遊戯。源氏物語桐壺「御心につくべき御―をし」。
②猟や音楽のなぐさみ。竹取物語「御―などもなかりけり」
③遊興。特に、酒色や賭博をいう。「―好き」「―人」
④あそびめ。うかれめ。遊女。源氏物語澪標「―どものつどひ参れるも」
⑤仕事や勉強の合い間。「―時間」
⑥(文学・芸術の理念として)人生から遊離した美の世界を求めること。
⑦気持のゆとり、余裕。「名人の芸には―がある」
⑧〔機〕機械の部分と部分とが密着せず、その間にある程度動きうる余裕のあること。「ハンドルの―」 [1]

こう眺めると,遊びとは,大きく,
 1. 遊戯・戯れとしての遊び(1 - 4, 6)
 2. ゆとり・合間としての遊び(5, 7, 8)

の2つの意味を持つことが見て取れる.「ゆとり・合間」としての用例は,夏と冬で金属が膨張・収縮することを見越して作られた鉄道のレール(軌条)の遊びがパッと思い浮かんだが,金属加工や紐を結える時に使う印象を持つ.

といいつつも,このゆとり・合間としての「あそび」は,「早くどこかにあそびに行きたい」という先のコメントに表れるように,遊戯・戯れとしての「あそび」と通ずるものがある.そして,現代社会はこの「あそび」をなくしつつあり,逆になくしつつあるからこそ「あそびーしごと」という二極が生じているのだろう.


学校におけるあそび

特に,その「あそび」が失われている最前線として,学校現場を上げることができる.校舎の窓を割られたり,暴力沙汰が日常茶飯事であった70年代の学校と比較するのは,私自身が当事者としてその現場にいたわけではないから難しいが,現代の学校,そして社会全体が規律・規則に縛られすぎているように感じる.近頃の中高だと,この情報化時代に「携帯持ち込み禁止」という謎の校則を課しているところも多いらしい.

規律や規則は判断を一律にし,明確化・客観化する効果があるが,まさにゆとりとしての「あそび」が失われていく.制度としての学校が「大学予備校」と化し,決められたことを教え,学ぶべきだ,という規則・規律の中に学校教育が落とし込まれていく.哲学者イリイチが「学校化」という言葉でこの現象を表現した.

私は,学校をいわゆるゆとり教育のなかで過ごした世代に属している.ゆとり教育の理想は,教科書で教える内容を減らし,総合的な学習の時間を取り入れることで,まさに学校教育の中に「あそび」を入れ,「学校の脱学校化」をしようとしたことにある.Schoolの語源は,ギリシャ語の「暇(スコレー)」というから,まさにその原義に戻った学校を作れないかと模索した時代である.

私が小学校の頃の担任だった山﨑氏は,その「あそび」を見事に使いこなしていた.総合的な学習の時間を使って,近くの商店街でインタビュー,屋上のプールの中でヤゴ取り,藁苞(わらづと)納豆づくり体験....教科の枠におさまらない体験を,学校教育という特殊な環境を活かして様々やらせてもらえた2年間は,私の小学校生活の中でも群を抜いて思い出深い*1.

しかし,多くの場合ゆとり教育は失敗だったという言い方をされる.それは「あそび」を使うには,あまりに現場の教員に要求されるレベルが高かったからだろう.教科学習の合間にゆとりができたが,「何をすればいいかわからない」という事態に現場の教員を陥らせてしまった.そして,結局何もしない時間が生まれ,「あそび」が単なる「弛み(緩み)」になり果てた


あそびとゆるみ

なるほど,「あそび」と「ゆるみ」は,似て非なるものなようだ.確かに,激しく動く機械のネジなどはゆるんでいては困るが,あそびはあって欲しい.

最近読んでいる『想像のレッスン』[2]で,鷲田清一が,ちょうど「ゆとり」に関してこんな興味深いコメントをしていた.

つまり、わたしが求めていたゆとりは、急いた時間、あくせくした仕事の対項でしかなかった。忙しさ、これに浸っていることじたいが暇よりはるかに心地よいところがあって、それをもっと輝かすために休息としてのゆとりを求めるにすぎなかったのだ。レクリエーションとは、なるほどよく言ったものだ。
ゆとりが休息であるあいだは、つまり忙中の閑であるあいだは、ほんとうのゆとりではない。それは緊張のなかの遊びでしかない。そのとき遊びは、歯車の遊びがそうであるように、作業を潤滑にするためにこそある。が、そんな遊びはほんとうは遊びからもっとも遠いものだ。(中略)ハノイのひとたちが物にふれるときのあの丁寧さ、そこに凝集しているあの静謐な緊張のなかにこそ、ゆとりのほんとうの形があるようにおもう。[2], pp. 313 - 314 

ここでは,「あそび」と「ゆとり」が対比されているが,私自身は「歯車の遊び」もまた,静謐な緊張の元に存在していると考える.というのも,歯車の遊びは,いくらでも取るべきものではない.取りすぎると歯車はかみ合わなくなり,機械が動かなくなっていく.「あそび」は,緊張感を伴って設計され,絶妙な間隔を必要とするわけだ

つまり,「あそび」とは,ゆるみではない.単にゆるんでいるべきものではない.緊密に計画され,ある一定の緊張感の中で生まれるべきものである.その緊張感の中で,設計されてこそ,ほんとうの意味でのあそび・ゆとりが生まれていくのではないだろうか.そして,現代人にとっての「あそび」は鷲田が批判するように「忙しさの中での緊張を解く期間」でしかなく,本来の「あそび」を見失っているのではないだろうか.


あそびから生まれる創造性

以前,私が代表を務める団体(UTaTané:https://utatane.github.io/)で,「創造性とは何か?」というテーマで議論をしたことを思い出す.その中で「創造」とは,
1. 既存の枠の中で価値ある作品を模倣し,枠組みを知る
2. その枠組みを超え,新しいものを創る
という2段階に分かれるという興味深い話が出た.

この枠組みの設計は,ここまで述べてきた「あそび」の設計とピタリと対応するようにおもう.枠組みをガチガチに固めてしまうと,今の学校教育さながら,何も新しいものを生み出さない「学校化」が進んでしまう.一方で,全く枠を作らず放置してしまうと,単なるゆるみでしかなく,ねじは外れてしまう.その間にある,絶妙な歯車の噛み合わせをつくること,これがあそびの設計であり,創造性を生み出す原点になるのではないか.そう感じる次第である.


脚注
*1 山﨑氏は現在都留文科大の特任の教員として,若手教師の育成に取り組んでいる.彼の著作[3]には,彼自身の「学校づくり」の実践例が多数登場しており,氏の人柄も色濃く感じられる一冊なので,ぜひご一読いただきたい.

参考
[1] 広辞苑無料検索「遊び」https://sakura-paris.org/dict/%E5%BA%83%E8%BE%9E%E8%8B%91/content/385_1242
[2]鷲田清一『想像のレッスン』ちくま文庫
https://www.amazon.co.jp/dp/4480435824
[3] 山﨑隆夫『希望を生み出す教室』旬報社 https://www.amazon.co.jp/dp/4845111098

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