「男性が姓を変える」ことには、どんな意味があるんだろう。
こんにちは、新城勇気です。
、、と、まだ慣れぬこの名前で自己紹介をしてみると、何かソワソワして仕方がない。なんだろうこの、自分であってまだ自分になっていない感じ。
そんなことを感じながら、何から書いてみるのがいいんだろうと思いつつ、筆を取ってみる(キーボードだけど)。
北村勇気という名前で32年間、生きてきた。
ただ、それが2023/12/11に入籍したことをきっかけに、戸籍上は新城勇気という名前に変わることとなった。
「なんで変わるの?」
「婿養子になるの?」
「借金が大変とか?」
普段一緒にいる時間の長い人たちは僕のことをなんとなく分かってくれてるのか、あまりその理由を聴かれることはない。
けど、ちょっと関係性が離れたりすると、そういう質問をよくもらう。
今回、そんな声をいくつか受けながら、その気持ちやその背景を見える言葉として整理してみよう。
と、noteに書いてみることを思いついた。
ちょっと長くなるだろうけど、「読んでみたい」「知りたい」という人に読み進めてもらえたら、嬉しいなと思う。
なんで女性の姓が変わる前提で話すんだろう
時は、2022年の夏。
沖縄にある妻の実家にはじめて行った直後くらいだったと思う。
「何を着ていくといいだろう?」と迷った挙句、
薄めの青地にジュゴンが泳ぐかりゆしを購入し、暑いから半ズボンでいいからね!と事前に言ってくれていたため半パンを着る。
まだ慣れない沖縄の日差しと湿気に頭が少しぼーっとしながら、少し緊張した面持ちでお父さんに会った。そんな頃合いの、少し後くらいの話。
その頃は「結婚します」ということを暗に仄めかしつつ、まだゆっくりとご挨拶の時分を見計らっていた。それぞれの心の準備ができるような時間軸で話を進めようとして。とはいえ、両家は「この子たち結婚するのね」というのを感じていたはずだけど。
自分の親に「沖縄の実家に行ってきたよ」と話すと、「息子もそういう歳になったんだ」とでも言いそうな、なんだか嬉しそうな表情を浮かべる。
その流れだったと思うけど、自然と「私、北村○○(名)になるんですね〜実感湧かない!」と妻(当時はお付き合い中)は言った。親は「そうだね〜」と返す。
その頃だったと思う。なにか違和感を感じ始めたのは。
自然と北村姓に2名の姓が集約されることが、暗に合意されている雰囲気。
その雰囲気を感じとった時に、「なんで女性の姓が変わる前提なんだろう?」という問いが自分の中で立ち上がってきた。
「どうして”北村”なの?」と聴かれることを想像したら、気持ち悪さを感じた。
別に、北村という姓が嫌いなわけではない。
とっても大好き!という気持ちがあるわけじゃないけれど、物心つく前から共にしているその姓に対して、親しみもあれば一体感もある。
でも、自分の拙い知識で認識していたのは、
江戸時代には、庶民に姓はなかったこと
明治に入って、国民を把握するために戸籍という制度が生まれ、その際に姓が全員に発生したこと
婚姻すると戸籍が紐づけられ、資産を継承するために男性側の家の姓にまとめられたこと
少なくとも江戸時代が終わり明治時代が始まった1867年、二条城で大政奉還が行われたその年のもう少し後から、婚姻すると男性の姓になることが比較的一般化したはず。そこから時は流れ、ざっくりと150年ほどが経過した。
要するに、婚姻すると一方の姓が変わるというのは、150年くらいの歴史があるということになる。
もちろん、それはその時代においては必要性のある、大事な制度だったのだろう。
それがあったことによって良かったことがたくさんあるのも、理解できる。
ただ、それは今も続けるべき制度なのか、慣習なのか。
正直、自分には判断がつかなかった。
性に関する捉え方も、家に対する観念も、働き方や生き方への感じ方も、大きく異なっている今が、ここにある。
もちろん少し前までは一般的だったのかもしれないけれど、その制度なのか慣習に対して乗っかるのは、気になった。
自分に子供がいる時がくるのかは分からないけど、仮にいたとして10代、20代になったとき、時代はもっと変わっているのかもしれない。男女別姓が一般的だったり、同性婚がいまよりも普通になっているかもしれない。そんな時に、
「なんで私は/僕は”北村”なの?」
と聴かれた時に、「特に意味はないかな」「うーんそれが普通だったからかな」と答える自分を想像したら、気持ち悪かった。その感情が、自分の中を駆け巡った。
別に他者がそう言ってても何も思わないけど、自分の事として捉えてみると気持ち悪い。自分の価値観がそう感じさせたのだと思う。
名が人をつくる。
バブルがぱちんと弾けた1991年の夏。秋田の奥地で生まれてみたら、我が家は材木屋を営んでいた。
木を切り、育て、加工して売る。
家の横には工場があって、いろんな機材がある。木を加工するくらいなので、一瞬でいろいろ切れてしまう危ない機材が多く、いつもその工場で遊んでは怒られていた。
切り出してきた木特有のふわんとした心地よい森の香りが好きだったし、仕事の合間に「みんなには内緒だからね」と言いながら僕をバイクの後ろに乗っけてパン屋さんやお菓子屋さんに連れて行ってくれるお兄さんやお姉さん達が大好きだった。
どうやら、”勇気”という名前はそんな我が家というか会社がかなーりまずい状況にあった時につけられた名前らしい。
「勇気出して乗り越えないとな」と、じいちゃんがよく口にしていたのを覚えている。
幼心に、ライオンキング(アニメ)のビデオを見ながら、「シンバ(主人公)みたいに勇気を持って生きるのが僕なんだ!」と、何やら影響を受けていたように思う。
そこから時は進んで25歳の頃。
幼稚園の卒園集の”あなたの夢は?”という質問に周りのみんなが「警察官」「お花屋さん」「サッカー選手」という回答をしている中、「ポケモンのサトシ」と書いたあの時の自分から歳を重ね、気がつけば”勇気”について考えなくなっていた。
そんな25歳。親友に誘われ南アフリカに行った際、久々に”勇気”に触れることになる。
その旅は、マンデラさんの人生を追いかける旅だった。
「人種隔離政策(アパルトヘイト)」を終結させた人物として知られるネルソン・マンデラさん。最後は南アフリカの大統領になってアパルトヘイトを終わらせたわけだが、その前は27年ほど監獄に入っている。
そんなマンデラさんが何を得て、何を失ったのか。何を感じ、何を生み出したのか。
そんなことを数名で学びに行った。
その行きのフライトだったと思う。香港からヨハネスブルクへ。
その機内で、『信念に生きる』という自伝を読んだ。
その中に、”勇気”について書かれた章があった。
これを読んだ時に、自分が”勇気”であることを思い出したような気がする。
その当時、数年の中で一緒に歩んでいた、仲間だと思っていた人たちがどんどん周りからいなくなった。その頃の自分は、「怖れ」をたくさん持っていたのだろう。
ただ、その「怖れ」に蓋をして努力せねばと自分を奮い立たせようとしていた気がする。いま思うと、「怖れ」を見ないようにしていた。
でも、このマンデラさんの言葉が目に入った時、
「自分は、怖れを知り受け入れた上で、前に進んでいくことができるんだ。」
そう感じたのかもしれない。
その時から、自分が”勇気”という名前に生かされているような感覚を持つようになった。
あの25歳の頃から7年ほど経過したが、今もあのフライト中に感じた心の動きを覚えている。
「ああ、自分は大丈夫だ」と泣いてしまったあの時の感覚も、残っている。(とめどなく泣いて、CAの方を困らせたことも覚えている)
名に連なる意味や文脈
時を最近に戻そう。
名を持つということは、自分にとってとても大切な事柄であった。
押し付けになってしまうかもしれないが、自分の妻に”慣習上、名を変える”というのを強いるのも嫌だったし、それを話題に挙げずに”あなたが姓を変えるよね”という関わりを自分がするのも後悔するように感じた。
自分に子供がいる未来があったとしたら、その子供に対してもその姓を選択した意味性を伴わずに、その姓になってもらうことに違和感があった。
そこで、フラットに考えてみようと思ったのが2023年の中盤ごろ。
北村になるのか、新城になるのか、それとも別姓として扱うのか。
1)別姓という選択肢
現在の日本で別姓を選択しようと思うと、基本的には婚姻届を提出せずに事実婚という形を取ることになる(時々、青野さんのnoteを読んで学ばせていただいていた)
ただ、我々にとって選択肢として挙がることはなかった。
今思うと、別に結婚ということ自体に対して何か気になりはなかったからだろうし、「子供がいたらいいよね」「お互いの親族が喜んでくれたらいいね」という観点から考えた時に、事実婚を選択するということはしなかった。
正直そこまで考え抜いた気はしないけど、家族やその未来のことを考えた時に、それぞれにとって嬉しい選択肢だとはそこまで感じなかった。
2)北村という選択肢
現代において、婚姻関係になるうちの96%は男性側の姓になるようである。
両家の両親はじめ親族もそれが受け取りやすいだろうし、なんなら自分も長男であるということを鑑みると、自然な選択として、北村はあり得る道だ。
実際、両家の誰もが北村になると捉えていた。
北村側の家は、もともと吉良家という武家の流れがあるそうで、何やら今の長野市あたりにいたらしい。ただ、第二次世界大戦中にいろんな人が戦地に赴き亡くなることが多すぎた結果、家としてかなり複雑な系統となり歴史が捉えられなくなっている。そして、北村である父方の祖父母も、自分が生まれる前に亡くなっていてもうよく分からない。
その歴史というコンテクストの追いかけづらさとともに、自分自身が母方の家である秋田で生まれたことで、北村のアイデンティティがそこまで強くなかったことは今回の選択に影響を与えているものの1つとしてあるかもしれない。
ただ、本noteの冒頭に書いた違和感が自分の中で決定打になった瞬間がある。
それは、2023年の中盤くらいに妻に対して「北村になっていいの?」と聴いた時に、「新城のままがいいな。沖縄の名前がやっぱり好き」と言った時。
それを聴いてふと浮かんできたのは、「好きならそれがいいよね」って感覚。その言葉が、実に自然に見えたから。
その瞬間に、自分の中では新城姓になるイメージをし始めることになる。
3)新城という選択肢
正直、この1〜2年より前は自分の姓が変わる時がくるなんて、これっぽっちも思っていなかった。
けど、妻が沖縄の自然と歴史を大切にして尊敬していることはよく分かっていたし、自分も3年ほど前からよく沖縄に行くようになって、沖縄からいろんなものをもらっている感覚があった。
「新城のままがいいな。沖縄の名前がやっぱり好き」という妻の言葉を聴いてから、よく頭に浮かんでくるようになったのは、沖縄の戦争の歴史や自然が紡いできたその感覚だ。
その感覚を持った時から、「沖縄のそういうコンテクストを自分も受け継いでいきたい」そう感じるようになったと思う。
沖縄と自分のコンテクストが重なる
誰もが知る通り、第二次世界大戦時には激戦地となった沖縄。そして、雄大な自然が今も残る沖縄。
この数年間、1人で時間をとってはいろんなところに行った。
ほんの一部だけど、いくつか感じたことを書いてみようと思う。
戦争のコンテクスト
沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒のための慰霊碑、「ひめゆりの塔」。その資料館には、当時の学校の楽しげな様子が描かれる。生徒たちの趣味だとか、先生にどんなあだ名をつけているのかとか。
そして、そんな日常がどのように壊れていったのか、どんなふうに戦争に突入し、その中でどのように果敢に生き、死に、生き残ったのかが紹介される。
ここではなんて書いていいのか分からないが、そこには確かに1人1人のお年頃の多感な学生たちがいて、そこには確かに沖縄のため、日本のために必死に生きた痕跡がある。
別の場所を書こう。
本島の中部に読谷村というエリアがある。「やちむん」と呼ばれる焼き物の窯が多くある場所だが、沖縄戦の際にアメリカ軍が侵攻を開始した場所でもある。
そこに「シムクガマ」という洞窟がある。
最初は知らずに行ったのだけど、向かう道中からあまりに空気が違っていて、でも引き返すことができないような心の状態になって、行った。
そこは、沖縄戦の時に1000名もの人々がひたすら長い期間、アメリカ兵から隠れていた洞窟。見つかったら殺される、そう思い、必死に生き続けた場所。
行ってみると、1000人が長い期間、息を潜めていたとは信じられないくらい暗く、狭い洞窟だった。何かもうよく分からない感覚が生まれ、立っていられなくなり、そこで泣いた。
別にも同じように隠れた洞窟があったらしいが、それらでは集団自決があり、いまは閉鎖されている場所も多いときく。「シムクガマ」にいたみなさんは生き残った。
なんで私たちだけ生き残ったんだろう。生き残ったけどもう死にたい。そういう感情を感じながらも、でも戦争後も生き続けた人たちがたくさんいる。その感覚を想像することは難しいけど、それでも思ったのは、あなたたちが生きてくれていたから、いま沖縄で生活している人がたくさんいるのだということ。
そう思ったら、「生きていてくれてありがとう。」そんなことをその場で感じ、ただただ祈った。
自然や神話のコンテクスト
いろんな場所があるが、まずはやんばる。
やんばるは、沖縄北部一帯のこと。去年のNHK朝ドラ『ちむどんどん』では、戦後のやんばるに生きた家族が取り扱われていた(個人的に、このドラマでかなりの量の沖縄の言葉を勉強した)。
その本当に最北端に近い場所に、大石林山という山がある。
その山中に入っているときに、現地の方にとある祠を教えてもらった。
分かったような、分からなかったような、正直理解できたかは分からないけど、ただ自分の体は何か嬉しい鼓動を感じていた。そんな感覚を得たのは覚えている。
もう1つ。久高島という島がある。
沖縄本島の知念岬の東の海上5.3kmにある、周囲約8.0kmの小さな島。島自体が沖縄最高峰の聖地。琉球開びゃく始祖・アマミキヨが降り立ち、琉球の神話や神事が今も息づく島。
この島を、『太陽の塔』などで知られる岡本太郎さんは何度も訪れ研究をしている。そして、久高島で得た感覚から、こんなことを言っている。
中学生の頃に『日本の伝統』という岡本太郎さんの本を読み、それから何か岡本太郎さんの残像を追うようになった。そんな自分としては、行ってみたい島と心のどこかで感じていた気がする。
そう思っていたら、妻の家のルーツが久高にあることが分かった。
それは大きな煌めきのようなものでもあり、何か得体の知れない恐さのようなものもあった。
そこには、広い空と、手付かずの海や草木、そして「何かがそこにいてくれているだろう」と思わずにはいられない、見えない空気のようなものがある。
白神山地のコンテクスト
沖縄に関わるようになり、いろんな場所で感じることが蓄積されていった結果、そこに意識を向けた時に自分の中で生まれたきたのは、沖縄という地への感謝と、自分もまたそのコンテクストを受け継いでいる存在なのだという自覚であったように思う。
白神山地という山々がある。
秋田県北西部と青森県南西部にまたがる約13万haに及ぶ広大な山地帯の総称であり、世界遺産にもなっている。
横綱・千代の富士が通算1045勝という記録を残し現役を引退した1991年の夏、この山々の麓で自分は生まれた。そして白神山地は、幼少期より楽しい遊び場であった。
細長いブナの原生林が広がり、そこにはいろんな動物が心地良さそうに生きていた。
でも、そこでの感覚は大人になるにつれて、ほぼ失っていたと思う。
沖縄に関わるようになって、気づいたこと。
それは、「自分もまたこの自然という循環系の一部であり、その循環をより良く回すことが、自分が受け継いでいるコンテクストなのだ」ということ。
じいちゃんがよく言っていた。
昔はふ〜ん、と思っていて随分な期間忘れていたけど、沖縄に関わるようになって、その言葉をよく口にしていたじいちゃんの、なんだか遠い目をした横顔を思い出した。沖縄に触れることで、白神山地に帰ってきたのだ。
新城という姓を選択することの意味
これは自分勝手な解釈だけれど、新城という姓を名乗ることは自分にとって、一種の祈りにも似たようなものな気がする。
生まれ出ずる地である白神の土地の想いを、受け継ぎながら生きられますように。
32年間共にしてきた北村という姓の中に眠る感覚を、別の文脈に載せて新たな歴史として紡いでいけますように。
沖縄に在り続ける様々な喜びや悲しみ、自然や歴史を次の世代に渡すための船として、自分を使っていただけますように。
この気持ちが自分の中に芽生えた時に、自分が新城を名乗ることはとても自然なことに感じられた。
そして、それは妻にとっても、そして我々の周りにいてくれる皆さんにとっても、自然なことだと感じてくれるのではないかと、そう思えたのだ。
上述の岡本太郎さん『日本の伝統』を読んだ中学生の頃の自分。
その時からとても強く覚えている箇所がある(それ以外大体忘れているけど)。
※正確な言葉はうろ覚えだが、こんな内容だと記憶している。
まだ言葉にできていないけど、沖縄からもらったものも、きっとその伝統の中心たる一点なのだろう。そして、自分が新城勇気という名になることで、その一部を勝手ながら引き受けさせていただいたような、そんな気がしている。
これが自分にとって新城になることへの意味であり、これからの自分の生き方である。そんなふうに、今は捉えている。
※つれづれメモ※
個人的に何か大切なもののような気がして、書いてみた。
どうなんだろう。これで表現できているのだろうか。うーん、23%くらいは表現した気がする。いまはこれでいいか。一番大事な軸だと思った部分を書いたつもりではある。
ただ、一番大事な軸だと感じるからこそ何か真面目な感じになってしまったような気がするけど、なんかもっと面白みがある感じのはず。
新しいチャレンジで自分の感覚も変わっていきそうだし、そのこれから長い年月をかけたこの自己変容プロセス自体がとっても面白そうじゃない!?って感覚も、存分にある。
あと、単純に妻のほうが銀行とかクレカみたいなものの氏名変更のような手続き系の作業が不得意で、僕のほうが得意だから合理的に僕が変えたほうが全体として楽じゃない?って感覚もあったり。
書くのってむずかしい。
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