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制作日記-それ自体の内に現れしもの
それ自体の内、とはどのような空間を指しているのでしょうか?自分自身で考えれば、自己存在の内になります。もう少し広げて、自分がいる家などを想像すると、自分と並列な存在となる。さらに広げて、社会や地球規模になれば、自分に影響を与えるものとなります。
そう考えると内と外の関係は入れ子状態になってくるし、立ち現れてくるもののスケール感も様々になってくる。作品を表現する中でその辺りのスケール感を抽象化しておかないと、限定的な表現になってしまいます。
そこの、抽象化と具現化の解像度みたいなものは、さじ加減になってくるのですが、想像性を広げるために、解像度をどのようにコントロールしてゆくかが、より純度が高い美に出会うことができるのではないかという課題に直結しているのではと、考えています。
ここが、抽象表現の難しいところで、イメージから言語化されたもので構成するのか?感覚に訴えるもので構成するのか?によってその質が変わってきます。メタファー(隠喩)とシンボル(象徴)と呼ばれる概念は現代アートの中で、とても重要な位置をしめています。
アート作品の中に、異なる隠喩や象徴的ものが対置されることで、新しい意味や価値を生み出す可能性があります。作品が持つ全体性や、要素同士の調和や対比、バランスが非常に重要視され、それによって立ち現れる、美しいかもしれないと感じられる、味蕾のような接点をうまく配置できているかをさぐり、定着してゆく作業を制作の中で重要視しています。
例えば、茶道などにおいて、それ自体の内に現れしものの美学がよく見られます。茶道では、茶室の内部や茶具、庭園の石や植物などが、全体として調和をつくり出すために配置され、茶碗とその中にうごめく液体のディテールなどの細部への神経回路とが、接点を持つことによって、美しきなにかが立ち上がってくる、そのような美意識の捉え方が、自分が考えるインスタレーションへの考え方の一部にあるように感じます。
また、このような考え方は、ドイツの哲学者、マルティン・ハイデッガーが解釈した「存在論的美学」という考えなどにも展開してゆきます、ハイデッガーによれば、芸術作品は「存在の展開」として存在するものであり、作品に込められた芸術家の存在や、観る人の存在といった要素が、作品自体とともに展開していくと考えられています。
このように、作品自体が自己完結的なものではなく、作品と周囲の環境や観る人との関係性によって成り立っているという考え方は、「存在論」という哲学的枠組みにもとづいています。したがって、「それ自体の内に現れしもの」という概念は、重要な役割を果たしていて、作品自体の内部にある要素同士の対比と同様に、外部と内部の関係性が、芸術的な価値や美しさを生み出すのだと考えられるのです。
いま、この作品がネット上のデータとして存在し、みなさんのスマホやPCで表示されているとき、ギャラリーなどの空間とは違う、作品の意味を持っていることが想像できます。私が、ついつい惹かれてしまう「稀薄な存在性への興味」は、時代とともに変遷してきています、なんだ、これは?という一瞬の次に、なにかが引っかかり、次の存在の展開に繋がるのか?無視され、ただの種のようにとどまるのか?また、そのような小さな二元論ではなく、それらを含めた何か、という認識も必要になってきている、という考えも進めてゆかなければならないと考えています。
今日は少し、アート論的なアプローチで書いてみました。時代的には、マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』などの新しい実在論の時代になって、思考対象の存在と同様に、その思考対象についての自分の思考も同じ権利で存在している的な考えも取り入れて深く、思考の重さみたいな感覚を取り入れてゆかないとなぁ、とか、表現の存在性みたいなものとか、無茶苦茶なシュールな世界に入ってきましたね。
ここまで、読んでくれてありがとうございます。
絵と文章で存在性の謎を楽しんでくれることを祈ってます。
では、
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