見出し画像

すべてが輝いている そんな時こそご用心

第15週 7月14日〜7月20日の記憶。 それを探る試みです。 
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。

今週は、マインドフルな生活にも慣れがきて、日々の“?感覚”が弱まってませんかという問いかけです。世界が輝いてみえる時こそ、本質への扉を自らの学びで開いて感覚していきましょう。

では、読み解いてまいります。

  

O. FÜNFZEHNTE WOCHE (14. JULI – 20. JULI [1912]).

15.
Ich fühle wie verzaubert
Im Weltenschein des Geistes Weben
Es hat in Sinnesdumpfheit
Gehüllt mein Eigenwesen
Zu schenken mir die Kraft
Die ohnmächtig sich selbst zu geben
Mein Ich in seinen Schranken ist.

Anthroposophischer Seelenkalender, Rudolf Steiners,1912


  まるで呪文にかけられ
  俗界の光で織りこまれた心膜では
  真率な感覚がぶれてしまう
  
  生命の本質を包みこむ膜は
  備わった力で織りあげてゆくのだ
  
  それに捧げる気のない人々は
  決めつけた私という隔壁の中にいる



輝く季節だからこそ


7月にかけて、季節はまるで魔法にかけられたように、美しい花をこれでもかというぐらい次々に咲かせ、感性をフル稼働させて写真を撮っていても飽きることがありません。毎日のように変化を愉しみ、地球上でその輝きを競うかのような姿に心を奪われます。

しかし、今週の先生は、その美しさを観察する時に、その美しさに対して「それが本質か?」と問うてきます。

確かに目の前に咲き誇る花々は美しさに溢れていますが「それだけに溺れずに、さらに何か別の要素が隠されているかもしれない…」というステレオタイプではない観察眼を持つのだ!とせまってくるのです。

たとえば、人生にたとえて、何もかもがうまくいっている夏の盛りでは、出会いはすべて新鮮。自分の思いどおりに仕事も人間関係も遊びも、何もかもがうまくいっているように感じる瞬間があるかもしれません。ただそれら光り輝く瞬間が「あなたの本質か?」と問われた時、果たして胸をはって「イエス」と答えられるでしょうか?

夏の美しさが溢れるこの季節だからこそ、自分が生まれ落ちた瞬間に立ち返って、「自分は何をしに、ここに来たのか?」という本質に、理想と偏見のバイアスをはずして、問うてみることがうながされているようです。


インドラの網


インドラの網のヴィジョンから、わたしを観察してみる。

インドラの網とは、華厳経の中で、インドラ(帝釈天たいしゃくてん)が住む宮殿のイメージすることで、悟りをえるのだと説かれています。その網は、森羅万象が相互接続された宇宙モデルなのです。

偉大な神であるインドラの天界の宮殿には、あらゆる方向に際限なく伸びる蜘蛛の巣のような網があります。神々の嗜好に合わせて網の結び目ごとそれぞれにきらめく珠玉が吊るされ、無限にそれらが広がっているのです。

網目は、ノード(結び目、集合点、節、の意味)として考えられます。珠玉は透明であり、互いのイメージを反射し合い、無限に現れて一つの大きな輝きになり、それぞれの珠玉の中にも同じような現れがあり、行き来する関係というより、瞬間的に全体で作用するのです。

かの宮沢賢治によって“インドラの網”を感得する場面が残されています。

天の子供らは夢中になってはねあがり
まっ青な寂静印の湖の岸硅砂の上をかけまわりました。
そしていきなり私にぶっつかりびっくりして
飛のきながら一人が空を指さして叫さけびました。

「ごらん、そら、インドラの網を。」

 私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変かわったその天頂から
四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、
その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、
透明清澄で黄金でまた青く幾億互に交錯光ってふるえて燃えました。

「ごらん、そら、風の太鼓も。」

一人がぶっつかってあわてて遁ながらこう云ました。
ほんとうに空のところどころマイナスの太陽ともいうように暗く
藍や黄金や緑や灰いろに光り空から陥んだようになり
誰も敲かないのにちからいっぱい鳴っている、
百千のその天の太鼓は鳴っていながら
それで少しも鳴っていなかったのです。
私はそれをあんまり永く見て眼も眩くなりよろよろしました。

「ごらん、蒼孔雀を。」

さっきの右はじの子供が私と行きすぎるときしずかに斯う云いました。
まことに空のインドラの網のむこう、数しらず鳴りわたる天鼓のかなたに
空一ぱいの不思議な大きな蒼い孔雀が宝石製の尾ばねをひろげかすかに
クウクウ鳴きました。その孔雀はたしかに空には居ました。
けれども少しも見えなかったのです。
たしかに鳴いておりました。けれども少しも聞えなかったのです。

「インドラの網」宮沢賢治より



みえないものを観る力
きこえないおとを聴く力


宮沢賢治のそのような天才的な感性が感じられるコトバですね。

インドラの網目にある、ひとつの珠玉は、あなた自身。インドラの網は、みえない、きこえないものをつなぐものの象徴として描かれています。大いなるものの力や、その縁起によるおかげで、あなたは生かされているのだという全体性をイメージさせてくれるものなのですね。

話はそれますが、インターネットによってつながった現代の情報ネットワークとの共通点も感じます。あなたの情報だけでなく、感性もどんどんとこの網の一部にとりこまれているように感じませんか。

でもです、それより太古の昔から生命は、このような情報ネットワークよりも強固な生命ネットワークによって生かされているのです。インドラの網が示すのは、全てが相互に依存し合うことの必然です。あなたは自分一人で生きているのではなく、他者や自然、宇宙との関係性の中で存在しています。この関係性に気づくことで、日常の行動や考え方にも大きな変化が生まれるはずです。たとえば、環境に対する意識や、利他や感謝の気持ちもインドラの網を通じた理解によって高まるのです。

それらの記憶を呼び覚まして日々をおくりたいものですね。


ノイズに気づく


宮沢賢治が風の太鼓、“おと”に言及したように、感覚を研ぎ澄まし、ノイズに気づくことも大切にしてください。

ジャック・アタリは“新たな秩序を構築するために既成秩序を破壊するノイズ”について論じました。既存のシステムに疑問符をつきつけるひとつの武器であろうとする新しい音(=ノイズ)は、社会を良い方にも悪い方にも変えてきたのです。

ただ、ノイズを聴こうとする姿勢がなければ、決めつけられた秩序の中で、自分自身の本質的な判断がつかないままとどまり続けなければならないのです。(ただ止まり続けることなどはなく意思なく流転してゆくのでしょうが…)

人間は、基本的な五感に疑いを持つことはありませんよね。ましてや、自然と自分がどうつながっているかなど、まったく興味がありません。無関心に、自分の周りにあるものを、みたり、触れたり、匂いを嗅いだり、味を味わったり、音をきいたりし続けています。

一部の人たちは、指先でモノを観れる可能性が非常に高いという研究結果があるようです。ロシアの科学者の報告によれば、触覚によって色を感知し、新聞の活字の上を指でなぞることによって新聞を読めた22歳女性のケース。というものがあるそうです。

非常に興味深い記事ですね。人間が何かをキャッチする器官には、眠っている能力が多くありそうですね。



なにかを求めているのであれば、無関心を続けるべきではなく、

純粋に、ひたすらに、注意深く、心を静めて

感覚する抽象に

耳を澄ます、必要があるのです。



2024年7月ジョロウグモ




隔壁の中にいる私


彫刻家の佐藤忠良氏は以下のように残しています。

「外なる自然」と「内なる自然」

 多くの作家が師表としたものは何かと探っていくと、ほとんど例外なく「自然から学んだ」ということにつきあたる。抽象作家と呼ばれる人であっても、そうである。

 そこでいわれる「自然」というのは、風の吹き方や雲の立ち方、四季に咲き乱れる花々、あるいは人体の構造からその運動形態といった形に現れる現象だけをいうのではなく、そのことを含めて、すべてのものが包みこまれたもの、あるいはそうしたことが拠って立つところを指すのである。

 それは人間が存在として自然と対置するものとして考えたとしても、また人間が自然の一部として存在すると見る考え方に立ったとしても同じで、ありとあらゆるもの、形をとらない心の動きといった精神の働きまで含めたすべてのものが、「自然」のことわりに属していると意識することである。

 そこでは、形態として見ることができる「外なる自然」の表れ方と、「内なる自然」という形をもたない精神の動きとが源を一つにしていて、ともに学ぶべき「自然」だと位置づけ、学ぶ人間それ自体も「自然」の一部と考えるわけである。

 こう見てくると、具象・抽象にかかわらず、作品を見たときの共感もしくは感動といった伝わり方は、作者の「自然」への向きあい方と、見る者の「自然」への考え方が共鳴しあうのだと考えられる。

美術 自然から学ぶ2 佐藤忠良ほか著 現代美術社 より


外なるものも内なるもの、ともに“学ぶべき自然”と位置づけ、自然を“学ぶ”ことから表現活動がスタートするという考えです。本当に純粋な感性で外界と内界を観察してみることが大切だと思うのです。

過去に観察したものだったとしても、成長したあなたが再度観察してみたら、新しい発見が眠っているかもしれませんよ。

固定観念、常識、定型、定石、自明性、ルール、自分の価値観だけの決めつけ、あたりまえ、表面だけをみた思い込みといったマインド。あなたを閉じこめるコレらに注意して、さらなる観察をお願いします。

そして、あなたをみえなくしている隔壁の存在に気づいたら

ひょいと、またいで行ってくださいませ。



シュタイナーさん
ありがとう

では、また


いいなと思ったら応援しよう!