すべてが輝いている そんな時こそご用心
第15週 7月14日〜7月20日の記憶。 それを探る試みです。
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。
今週は、マインドフルな生活にも慣れがきて、日々の“?感覚”が弱まってませんかという問いかけです。世界が輝いてみえる時こそ、本質への扉を自らの学びで開いて感覚していきましょう。
では、読み解いてまいります。
*
まるで呪文にかけられ
俗界の光で織りこまれた心膜では
真率な感覚がぶれてしまう
生命の本質を包みこむ膜は
備わった力で織りあげてゆくのだ
それに捧げる気のない人々は
決めつけた私という隔壁の中にいる
*
輝く季節だからこそ
7月にかけて、季節はまるで魔法にかけられたように、美しい花をこれでもかというぐらい次々に咲かせ、感性をフル稼働させて写真を撮っていても飽きることがありません。毎日のように変化を愉しみ、地球上でその輝きを競うかのような姿に心を奪われます。
しかし、今週の先生は、その美しさを観察する時に、その美しさに対して「それが本質か?」と問うてきます。
確かに目の前に咲き誇る花々は美しさに溢れていますが「それだけに溺れずに、さらに何か別の要素が隠されているかもしれない…」というステレオタイプではない観察眼を持つのだ!とせまってくるのです。
たとえば、人生にたとえて、何もかもがうまくいっている夏の盛りでは、出会いはすべて新鮮。自分の思いどおりに仕事も人間関係も遊びも、何もかもがうまくいっているように感じる瞬間があるかもしれません。ただそれら光り輝く瞬間が「あなたの本質か?」と問われた時、果たして胸をはって「イエス」と答えられるでしょうか?
夏の美しさが溢れるこの季節だからこそ、自分が生まれ落ちた瞬間に立ち返って、「自分は何をしに、ここに来たのか?」という本質に、理想と偏見のバイアスをはずして、問うてみることが促がされているようです。
インドラの網
インドラの網のヴィジョンから、わたしを観察してみる。
インドラの網とは、華厳経の中で、インドラ(帝釈天)が住む宮殿のイメージすることで、悟りをえるのだと説かれています。その網は、森羅万象が相互接続された宇宙モデルなのです。
偉大な神であるインドラの天界の宮殿には、あらゆる方向に際限なく伸びる蜘蛛の巣のような網があります。神々の嗜好に合わせて網の結び目ごとそれぞれにきらめく珠玉が吊るされ、無限にそれらが広がっているのです。
網目は、ノード(結び目、集合点、節、の意味)として考えられます。珠玉は透明であり、互いのイメージを反射し合い、無限に現れて一つの大きな輝きになり、それぞれの珠玉の中にも同じような現れがあり、行き来する関係というより、瞬間的に全体で作用するのです。
かの宮沢賢治によって“インドラの網”を感得する場面が残されています。
みえないものを観る力
きこえないおとを聴く力
宮沢賢治のそのような天才的な感性が感じられる詞ですね。
インドラの網目にある、ひとつの珠玉は、あなた自身。インドラの網は、みえない、きこえないものをつなぐものの象徴として描かれています。大いなるものの力や、その縁起によるおかげで、あなたは生かされているのだという全体性をイメージさせてくれるものなのですね。
話はそれますが、インターネットによってつながった現代の情報ネットワークとの共通点も感じます。あなたの情報だけでなく、感性もどんどんとこの網の一部にとりこまれているように感じませんか。
でもです、それより太古の昔から生命は、このような情報ネットワークよりも強固な生命ネットワークによって生かされているのです。インドラの網が示すのは、全てが相互に依存し合うことの必然です。あなたは自分一人で生きているのではなく、他者や自然、宇宙との関係性の中で存在しています。この関係性に気づくことで、日常の行動や考え方にも大きな変化が生まれるはずです。たとえば、環境に対する意識や、利他や感謝の気持ちもインドラの網を通じた理解によって高まるのです。
それらの記憶を呼び覚まして日々をおくりたいものですね。
ノイズに気づく
宮沢賢治が風の太鼓、“おと”に言及したように、感覚を研ぎ澄まし、ノイズに気づくことも大切にしてください。
ジャック・アタリは“新たな秩序を構築するために既成秩序を破壊するノイズ”について論じました。既存のシステムに疑問符をつきつけるひとつの武器であろうとする新しい音(=ノイズ)は、社会を良い方にも悪い方にも変えてきたのです。
ただ、ノイズを聴こうとする姿勢がなければ、決めつけられた秩序の中で、自分自身の本質的な判断がつかないまま止まり続けなければならないのです。(ただ止まり続けることなどはなく意思なく流転してゆくのでしょうが…)
人間は、基本的な五感に疑いを持つことはありませんよね。ましてや、自然と自分がどうつながっているかなど、まったく興味がありません。無関心に、自分の周りにあるものを、みたり、触れたり、匂いを嗅いだり、味を味わったり、音をきいたりし続けています。
一部の人たちは、指先でモノを観れる可能性が非常に高いという研究結果があるようです。ロシアの科学者の報告によれば、触覚によって色を感知し、新聞の活字の上を指でなぞることによって新聞を読めた22歳女性のケース。というものがあるそうです。
非常に興味深い記事ですね。人間が何かをキャッチする器官には、眠っている能力が多くありそうですね。
なにかを求めているのであれば、無関心を続けるべきではなく、
純粋に、ひたすらに、注意深く、心を静めて
感覚する抽象に
耳を澄ます、必要があるのです。
*
*
隔壁の中にいる私
彫刻家の佐藤忠良氏は以下のように残しています。
外なるものも内なるもの、ともに“学ぶべき自然”と位置づけ、自然を“学ぶ”ことから表現活動がスタートするという考えです。本当に純粋な感性で外界と内界を観察してみることが大切だと思うのです。
過去に観察したものだったとしても、成長したあなたが再度観察してみたら、新しい発見が眠っているかもしれませんよ。
固定観念、常識、定型、定石、自明性、ルール、自分の価値観だけの決めつけ、あたりまえ、表面だけをみた思い込みといったマインド。あなたを閉じこめるコレらに注意して、さらなる観察をお願いします。
そして、あなたをみえなくしている隔壁の存在に気づいたら
ひょいと、またいで行ってくださいませ。
*
シュタイナーさん
ありがとう
では、また