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いつからか私は、幸せも不幸も「死にたい」という言葉でしかあらわせなくなった【100日後に死ぬワニ感想】

こんな漫画があった。

https://twitter.com/yuukikikuchi/status/1205120078322159617?s=20

きのう、Twitterで毎日連載されていた「100日後に死ぬワニ」という漫画が完結した。最初はRTやいいねで回ってくるものを見るとはなしに見ているだけだったが、いつしか毎日確認するようになっていた。ワニの(私とは縁遠そうな)なんだかんだで幸せで「リア充」な日常は終わってしまった。 

 100日後はとうに来てしまった。

ーー以降の内容はネタバレを含みます。


 ワニの死にかこつけて自分と「死」について(あるいは無為に過ぎ去った100日間について)筆(比喩)の向かうまま書き連ねる。

 この100日間で私は何か変わることが出来ただろうか。ワニは新たな職に就き、友達を増やし、気になっていた人と恋仲になった。どれくらい本気なのか読み取ることが出来なかったが、「プロゲーマーになる」という目標も持ち始めていた。対して私は中間試験を受け、友人と忘年会新年会その他をし、期末試験を受け、春休みは辛うじて毎日、最低一時間以上と決めた勉強を継続しつつ趣味の読書をしていた程度である。これだってまだ数十日単位だ。100日前に開始して、継続できていればと悔やむ。

 いつか、例によって夜中の鬱ツイで「死にたいけど、なんとか死なずに生きることばかり目標にしていたら死なない事しかできなくなってしまった」というようなことを書いたことがある。

 「死にたい」とは難しい感情で、実際に死にたいわけではないがその場に居続けることが望まれているのにそうすることがどうにも苦しく、いっそやらなければならないこともやりたいこともすべて捨てて逃げてしまいたいという感情や、他人に対する当てつけのような感情も含んでいる。一度「シニタイ」という言葉でそのような感情を表すことを覚えてしまった人間はいつしかその言葉に取りつかれてしまい、本当に死にたくなってしまうことがある。本当は死にたくないし、「死なない事」、つまりただ生存する以上のことを成し遂げたいと思っているにも拘らず。

 そのせいか私が最近考えるのは、「幸せだから死にたい」という感情のことだ。これ以上楽しいことも不幸なことも怒らないでほしい、現状が申し分ないとまでとは言えなくともそこそこ幸せだから、今ここで確定したいと思う。株式投資でいうところの「損切り」に近いかもしれない。

 だがここで言えるのは、今の私にとってそうすることは全く理がないということだ。初めの話に戻るが、100日間にわたって連載された漫画は私にそのことを教えてくれた。ワニの死が不利益をもたらしたのはワニ自身ではなく、ワニを取り巻く恋人や友人、そして仕事場の人間や実家にいるであろうワニの家族であった。死はその人のものであると同時に、その人と直接的あるいは間接的にかかわる全ての者のものであった。死ぬというのはドーナツの穴になることに似ている。自分の不可変な不在を作り出すことが自殺なのだ。

 だから私は死なないでいようと思うし、感情を「シニタイ」以外の言葉で表すことから決して逃げてはならない。ワニの漫画を読んだほかの方々の感想では、「死を身近に感じた、命を大切にしようと思った」などと目にしたが、健康な人間生活を送るためには寧ろ死を遠ざけねばならない。駅のプラットフォームに立つたびに飛び込みという単語がちらつくような状態にあってはならない。死は身近に感じるべきものではなく、忌むべきものである。

 病気の人に対する言葉としては、もちろんこれは間違っている。配慮に欠けていると思う方がいれば申し訳なく思う。これは一応健康で本当は死にたくないのに死にたいと思ってしまう自分だけに向けた言葉のつもりである。

 身近な人が生きていること、自分がいま生きられていることに対する感謝は忘れてはならないが、死を日常に取り入れることは間違っていたと思う。

さいごに、ワニは天変地異や突然の事故で死ぬのではなく、自分の意思でヒヨコを救うと決め死へと続くかもしれない道に踏みいれたのだったら、本当によかったと思う。

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山時ゆき
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