三島由紀夫はなぜ太宰治が嫌いだったのか?
三島由紀夫と太宰治
三島由紀夫が太宰治に批判的であったのは有名である。
それを示す具体的なエピソードとして上がるのは、評論家の亀井勝一郎と他の太宰の取り巻き達の出席する会に、三島が足を運び、太宰に「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言い放ったことである。
またその時の太宰の反応は、野原一夫『回想 太宰治』に「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか。」吐き捨てるように言って、太宰さんは顔をそむけた。」と書かれている。
一方で三島の『私の遍歴時代』には「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と太宰が笑ったと書かれている。
これらどちらの回想録も事実に即したものであると考えるとして「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか。」と言った後に、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と太宰が言ったとされる。
そして三島の太宰に対する嫌悪が見られる素材はこれだけではない。
三島『小説家の休暇』より以下のように書かれている。
三島は太宰の病理は冷水摩擦や機械体操で治ると言い切っている。
三島の弱さへの姿勢は徹底的に自己超克して、脆弱性や放縦さを自分のなかからそぎ落としていく作業に他ならない。
その雄々しさへの過剰な追及は、三島が徴兵検査で国家の大義を遂行するための兵力としての基準を満たしていないと判断されたことへの劣等感があると考える。
また三島の幼少期はひどく病弱であった。
多くの人は三島に抱くイメージとして「弱さ」を思い浮かべる人はいないだろう。
その概念はどちらかと言えば太宰と紐づけられていることが多い。
もし仮に二人の根源的な部分は似ていて、その発露が違ったが故に、三島は太宰を嫌悪していたとするなら?
三島は祖母、太宰は叔母に育てられ、女性に囲まれた幼少期を過ごしていた。
また二人の終幕は自死によって締めくくられた。(太宰の玉川上水への入死は、本人は望んでいなかった説があるが)
そんな人生の始まりから終わりまでが類似している二人の文豪が、どうしてお互いを認め合う存在になれなかったのかを紐解いていこうと思う。
連続性と非連続性
戦後の日本では急速に近代化や西洋化され、利益や効率が優先される資本主義社会へと転換されていく。
戦時中の「一億総玉砕」の中での価値観は、死とは恥ずべきことではなく、むしろ国家の大義を遂行した賞賛されるべき行いであった。
しかし資本主義社会になったら、国民は「生きた」ほうが国家の資本を増幅させるので、戦後では国家のための自己犠牲を美徳とする風潮は古びていく。
国民が経済活動の主体となり、その「健康」と「生存」が国家の生産性に直結していく。
また経済成長に伴い、消費文化が盛んになっていく。
人々は物質的な豊かさを求め、消費と通じて個人の幸福の追求や社会的地位を確立していく。
三島はこの物質主義に待ち受けるのは精神性の喪失であり、個人の内面的な美や精神的な充足が犠牲になっていると言っている。
また1947年に憲法改正が行われ、天皇が象徴的な存在になり、民主主義的政治体制を導入した。
三島は天皇が日本の長い歴史と文化の伝承者であり、変遷する政治や社会の流れの中でも、国民のアイデンティティと文化的な統一性を維持する重要な役割を果たすと考えていた。
そして天皇が日本の過去と現在と未来をつなぐ象徴的な存在として、国家の精神的な中心でなければならないと感じていた。
三島にとって天皇は単なる政治的な象徴以上のものであり、日本の精神性と文化的な根底を保つ存在であった。
この考え方は三島が戦後の日本の急速な西洋化と近代化に対して感じていた危機感と深く関連している。
三島はこれらの変化が日本固有の価値観や伝統を脅かし、国民の精神的な基盤を弱めていると考えていた。
そのため天皇を通じて日本の歴史的、文化的な連続性を保持しようとする三島の思想は、彼の作品や公的な活動において重要なテーマとなっている。
三島にとって天皇は変化する時代の中で不変の価値を象徴し、日本人が自己のアイデンティティを見出し、維持するための鍵であった。
そしてそれら連続性とは対照的な文豪が太宰治であると私は考える。
孤独と不信が生涯を通じて太宰を支配していたように思えるが、上の女生徒での文章は人に対する希望や信頼が見られる。
一方ここでは多くの人がイメージする、太宰の人に対する猜疑心や不信感が文章の中で表されている。
また太宰の作品である「走れメロス」の創作秘話でも、そのある種の非連続性、または非整合性が見られる。
「走れメロス」とは古代ギリシャのおける友情と信頼の物語である。
人質にとられた友人セリヌンティウスを助けるために、主人公であるメロスが期日内まで戻らなけらばならない設定である。
メロスが妹の結婚式から戻る最中に様々な障害にぶつかり心が折れそうになるが、約束の時間の直前で到着する。
そこでメロスは何度も「逃げたい」と感じたことをセリヌンティウスに誤り、一方でセリヌンティウスは何度も「メロスは戻らないのでは」と疑ったことを謝ることで物語は終わる。
実に力強い友情を表現している物語であるが、このストーリーの背景には太宰の熱海事件が元になっているとされている。
熱海事件とは執筆のために熱海の宿に泊まっていたが、お金が無くなり、内縁の妻・初代に手紙を送り、宿泊費を届けてもらうが、そのお金も太宰は使い果たしてしまった。
太宰は一緒にいた友人の檀一雄に「明日、いや、あさっては帰ってくる。君、ここで待っていてくれないか?」と言い残し、別の友人にお金を借りにいった。
取り残された檀一雄だが太宰は期日までに戻ってこなかった。
時間だけが経過して、さすがに我慢ができなかった檀一雄は太宰のもとに向かうと彼は将棋を打っていたとされる。
堪忍袋の緒が切れた檀一雄に太宰は「待つ身がつらいかね。待たせる身がつらいかね」と言った。
物語と現実は乖離しており、約束の期日に間に合わなかっただけではなく、そもそも約束した行動が実行すらされず、別の活動に時間を費やしていた。
以上で三島は太宰の小説「斜陽」で文章のセリフの決まった型を崩して表現しているのを批判している。
二人が過ごした時代の社会的地位とセリフ表現の整合性を合わせるなら、三島の言っていることは間違っていない。
一糸乱れることなく整然としている三島の文章からすれば、太宰の文章は無秩序そのものに見えていたのかもしれない。
絵画に例えるとするなら、三島は対象を忠実に描いているのに、その横で太宰は少し崩して描き、モネの様に印象派のスタイルをとっていると言える。
弱さからの逃走か闘争か
人間は神経症的傾向が高い時にとる選択として、逃走か闘争かを選ぶ。
もう一つ、人間はネガティブなことが起きた時に、自罰的になるか他罰的になるかに分けられる。
他罰的な人は問題を環境や他人に帰属するので、神経症的傾向の高さへの対応は常に逃走である。
しかし自罰的な人は問題を自身に帰属させるので、逃走か闘争かの二択を迫られる。
太宰の作品を読むと彼が自罰的な人間だということが分かる。
人間失格での冒頭で書いてある「恥の多い人生を送ってきました」という言葉を一度は耳にしたことがある人は多いだろう。
恥とは自身がなにか間違いや過ちを犯したという認識から生じる恥ずかしさや屈辱の感情である。
自叙伝と呼ばれる人間失格で太宰は自分の人生の過ちを自身の責任だと捉えていることが分かる。
そんな自罰的な太宰の逃走手段は酒と自殺企図である。
上記の写真は銀座のルパンというBARで撮られた写真である。
一度は見たことがある人もいるのではないだろうか?
写真家の林忠彦が文豪の織田作之助を撮っていたところ、酔っていた太宰にもせがまれて撮影した写真である。
上の引用は太宰の「桜桃」という作品の一部抜粋である。
自分の思っていることが言えなくて、神経症的傾向が高くなった結果、酒を飲むことで逃避する。
まさに太宰自身のストレスへの対処の仕方を表した一文である。
自殺企画もまた現実から逃走する役割を担っていた。
しかし自殺企画を自身の創作活動の材料にしていたという説もある。
私の見解は現実から逃走するために自殺企画を行ったが、結果としてそれが太宰の筆を走らせる素材となった。
いずれにしても太宰は弱さを克服したり、否認したりするスタイルを採用していない。
むしろそれを創作に活かしていたという点では、自己の脆弱性を肯定していたとまでは言わないが、受容的であったとはいえる。
しかし弱さを受容することすら許さなかったのが三島だ。
三島は体が弱い幼少期を過ごし、徴兵検査でも軍人になれる基準を満たしていないと判断されたことに強い劣等感を持っていた。
また戦後消費社会へと転換していく中、今までの貴族文化が腐敗していくのは、三島にとって二重の敗戦そのものだった。
肉体と精神を磨きあげることはそういった不満や弱さを超克する意味合いが強かった。
したがって三島は太宰のような弱さを受容して、それを芸術へと昇華させる創作手段に批判的だったと考える。
まとめ
本文は作者の個人的見解でまとめられており、専門性や学術的な根拠に基づいて書かれたものではない。
また三島と太宰、どちらかの思想や作品は優れているというように述べてたくて記述したわけではないことを留意していただけると大変ありがたい。
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