夢と浪漫の違いについて
こんにちは、ゆきふるです。
今年もだんだん肌寒くなってきて、年末に向かっていく時の流れを日々感じています。
私は、このちょっと寒くなってきたくらいの時期に朝早く起きて、外の澄んだ空気を感じながらぶらぶら歩くのが好きなんです。
先日、早朝の上野周辺を散歩していたときのこと。
上野から少し歩いてきて、ちょうど谷中銀座のあたりに差し掛かったとき、朝焼けでオレンジに色付く空が遠くに見えました。
なんでもない日の、なんでもない光景なのですが、なんだか心が震えちゃいました。
あのあたりには、木造でちょっと歴史を感じるような建物が残っており、その街並みも相まってノスタルジックな気持ちにさせられました。
そして立ち止まり、じっと空を眺めていたところ、ふと、「浪漫」という言葉が頭に浮かんできたのです。
「浪漫」という言葉それ自体には馴染みがありましたが、自分の内側から「これは浪漫だなぁ」のように感じたことがなかったので、自分でも不思議な気持ちになりました。
「浪漫」っていったいなんなのでしょうか。
◇ ◇ ◇
先日、知人との会話の中でちょうど、「浪漫」に関する話題が出ました。
その会話の中で「浪漫」とはなんなのかという問いについて考えていたところ、「『夢』との違いはなにか?」という新たな問いが生まれました。
いやはや、なかなか面白くなってきました。
私がそのときに思い至ったのは、夢と浪漫の持つ「距離感」の違いについてです。
これが私の頭で整理した両者の違いです。
この視点に立って「浪漫」について今一度考えてみました。
浪漫には、頑張れば触れられるかもしれない、できるかもしれないという期待感や可能性が見えるという点で、夢と比べて身近に想像できるものなのかもしれません。
そして浪漫を考える上で外せないもう一つの要素に「美しさ」や「儚さ」があると思います。
浪漫は、手が届きそうで届かないという夢よりも距離感の近いある種の理想に心が引き寄せられることで、なんでもない日常の中にふと、輝きのように現れるのではないでしょうか。
ノスタルジックな街並みは、確かにそこにあって触れることはできるものだけれど、過去のその土地での生活をリアルに想像することは難しい。だから、歯痒い。
早朝、いくつかの条件が揃ったほんの数分にのみ見ることのできる朝焼けは、いつでも見ることができそうだと思えるかもしれない。
でも全く同じ朝焼けを、同じ気持ちで見ることはきっと一生叶わない。だから儚く、そして美しい。
以上はあくまで私個人の考えではありますが、浪漫とはなんなのかと考えてみることで、日常の小さな心の動き、自分の目がキャッチした輝きに対して、ふと立ち止まってその感覚を大事にするきっかけになるかもしれません。
では、また。