エッセイ ♯11|「東京タワー〜オカンと反抗期のアラサー娘〜。」
私の反抗期は遅い。なんと30歳から本格的な反抗期が始まってしまった。
未来に希望を馳せながら頑張ってきた学生時代。だが希望も虚しく、就職して結婚をしたあたりから、どんどん思い描いていた20代との乖離が激しくなり、絶望した。
物事が少しずつ上手くいかなくなり、やがて自分の人生そのものが「上手くいかない集合体」のように感じた時、私の心の糸がプツンと切れた。その後、激しい怒りが湧いてきて、やるせなさの矛先は一心に母親に向いた。
顔を合わせる度、母親の過去の言動や行動を責め、罵った。「謝ってほしい」と何度も訴えた。上手くいかないのは全て未熟な母のせいだと信じていた。
でも、未熟なのは私だった。
それに気付いたのは、母はいつだって、未熟な私に対して一度も態度を変えることなく接してくれて、淡々と「アンタの言ってること、ちょっとおかしいよ」「最近のアンタ、めっちゃ変だよ」と叱ってくれたからだ。
絶対に私の機嫌に持っていかれない、絶対に私の負のオーラになびかない。その姿勢に私は降参したのだ。
自分の未熟さを本格的に受け入れたのは、2年前の34歳の頃だった。久しぶりに実家に帰った時に、母は私の帰省に喜んだ。
自分が産んだ娘はもうすっかり胃袋がおばさんになっているのに一緒に暮らしていた頃(20代前半くらいまで)と変わらず、膨大な数のとんかつや天ぷらなど、揚げ物を嬉しそうにこしらえている後ろ姿を見た時に、突然「もう、反抗期はやめよう」と思った。
「今までごめんね」と謝ると、「なんのこと?」と母は笑った。
「水に流す」ことの大切さを、私は母から学んだ。
八つ当たりを繰り返した未熟さを悔いる気持ちと、八つ当たりをさせてもらった感謝の気持ちを同時に感じた。
思い返すと、自称反抗期の頃も、辛い時、悲しい時、苦しい時、思い出すのは母の顔だった。
嬉しい時、楽しい時、美味しいものを食べた時も、思い出すのはやはり母の顔だった。
「母にも食べさせてやりたい」「母にも経験させてやりたい」
こんなにもそう思えるのはきっと、私の記憶にない頃に、母が私に対して何度もそう思ってくれたからではないだろうか。
つい鬱陶しく感じてしまっていたけど、就職をしても弁当を持たせてくれ、夜どんなに遅くなっても食事を作って待ってくれていた。
無償の愛、想い。「心配は愛なんだ」ということも母から教わった。
この肉体はいつか滅亡してしまうけど、人の想いだけは永遠だ。だから肉体と想いのどちらも兼ね揃えている今、親孝行がしたい。
でも、もう私は知っている。親孝行とは、子どもが無理をすることではないことを。
本当の親孝行とは、子どもが自分で選んだ道をウンと楽しく突き進んでいる姿を見せることだと。
捻くれすぎてすっかり忘れていたけど、今思えば「アンタは結局何が言いたいの?どうしたいの?」と、母はよくこう問いかけてくれていたように思う。
この世で一番、憎悪の感情が出たのも、感謝の気持ちが溢れ出たのも母だ。
だから、母という存在はいつだって偉大だ。
「いつか近くで見たい!」と言っていた東京タワーを、母にも見せてあげたいなと思う。
近い未来、必ず、連れて来よう。