エッセイ #15|私の人生にとって「もうアカン・・・。」は希望の言葉
36年の人生で、私は一体何度「もうアカン・・・。」と呟いただろうか。(関西出身)
数えきれないほどの「もうアカン・・・。」の中でも、これに勝るものがない「もうアカン・・・。」は10代の頃に遡る。
私が16歳の時、父親の事業が傾き、元々不仲だった両親がとうとう離婚した。
家庭の経済事情が大きく変わったことで、慣れ親しんだ土地からの引越しを余儀なくされ、可愛がっていた飼い犬も手放さざるを得なかった。(とっても裕福な母の友人が引き取ってくれて、愛犬は母の友人夫妻に寿命を全うするまで溺愛されて大切にしてもらっていた。)
思春期真っ只中と言われる16歳で、家庭の経済事情が天と地ほど変わり、知らない土地への引越しに、ずっと一緒だった父親はもちろん、一緒に育った愛犬ももういない。
長年専業主婦だった母は、状況的にフルタイムで働かざるを得なくなり、慣れない仕事に毎日辟易としていた。
自身の環境の変化と、辛そうな母を横目に「生きるってキツいなぁ・・・。」と思いつつも、それでも私は前向きに生きていた。
唯一の救いは、中高一貫の私学に通っていたため転校がなかったことだ。
そのため友人関係だけは変わらず保つことができて、思春期だった私の心のバランスも比較的保ちやすかった。
アルバイトに忙しかったけど、休みの日には仲良しの子と高校野球に熱をいれたり、プリクラを撮ったり、
何をそんなに歌うことがあるねん?と言わんばかりに、学割を武器に一日中カラオケにいた。ドリンクバーのシステムにも本当にお世話になった。
”明日が当たり前に来る”と信じて疑わない、平穏な友人たちを心の中では羨ましく思いつつも、現状を嘆いたところで仕方がなかったので、
「私は人より早くちょっぴり切ない経験をしただけだ!」と自分に言い聞かせて、半ば強制的に前を向いて生きていたように思う。
こうして私は、新しい土地に慣れ、アルバイトにも勤しみ、高校3年生になっていた。
母も仕事に慣れ、今考えても尊敬するほど、仕事と家庭を両立している印象だった。
そんなある日、妹が突然の病で緊急入院することになった。
診断結果は、
「あと血管が1本切れていたら・・・どうなっていたから分かりませんでしたよ!」
医者から言われるぐらいの最重度と呼ばれるレベルの後天性の血液の病気だった。
「妹が入院することになった。助かる手段は骨髄移植一択やって。でもな、骨髄の適合率って親子で1%以下(まず適合しない)で、姉妹でも25%の確率やねんて・・・。もし誰とも骨髄が適合しなかったら、対処療法でなるべく延命をするしかないらしい。でもそれは所詮対処療法だから妹の体力がそこまでもたないらしく、後は寿命が尽きるのを待つだけやって・・・。」
憔悴しきった母から聞かされた言葉は今でも一言一句覚えている。
この時こそが、私の人生最大の「もうアカン・・・。」が出てきた瞬間でした。
”お医者さんもうまいこと言うてるけど(患者家族に対する最大限の気遣いだったと今では分かる笑)
結局は、骨髄移植一択やん。これが無理なら、妹は助かりませんよってことやん。
ちょっと神様さぁ、いくらなんでもキツいわ。やりすぎやろ。
なんでこんなに被せてくるん?
やっとちょっと生活が落ち着いてきたと思ったらこれかよ・・・”
取り乱して、錯乱状態で、来る日も来る日も泣き続けた母とは対照的に、私は一度たりとも泣けなかった。
これも今だから分かるのだが、泣く余裕がなった。
本気の錯乱状態は私の方だったのだ。
その証拠に、母は我が子に思いを馳せながら、オイオイと泣きつつも、
「妹にもしものことがあったら、私も一緒に逝くって決めてる。その時はあなたはおばあちゃんとおじいちゃんを頼りなさい。絶対に守ってくれるから。」
毎日のように私にこう伝えていた。
超現実的だった。辛いのにちゃんと先のことまで考えている。
でも私は【今この瞬間】から動けなかった。
【もうアカン選手権】たるものがあったらきっと優勝できるぐらい、
私は来る日も来る日も「もうアカン・・・。」と頭の中で呟き続けた。
学校に行っても、何もしていても、このことで頭がいっぱいだった。
周りの大人達は「あの子(私のこと)は泣きもせずにボーッとしてる。何を考えているのか分からない。自分の妹がこんなことになって悲しくないんだろうか?」と不思議がっていた。
それでも私はその場から動けなかった。
でも、この姿勢こそが、パーフェクトにグッジョブ!だと分かったのはこの日からちょうど20年後の今だ。
この世は相対であり、表裏一体。そしてパラドックス。
望みの反対側を先に経験するから、望みが叶うのだ。
改めてシンプルに表現すると、表があるから裏がある。
絶望があるから希望があるということ。
でもほとんどの人が絶望を感じたがらない。そりゃそうだ。猛烈に不快だから。
だから悪気はなくとも、中途半端に絶望という感情をねじ伏せた状態で、未来に目を向けてしまう。
早くこの不快感から逃れたくて、早くこの苦しみから抜け出したくて。
助かるために方法論に走ったり、現実逃避をしたり、最悪の未来を想定して、自分の心をなだめようとする。
まずは何としてでも、まずは自分に対して救いが欲しいのだ。
この時は悪気はなくとも、残念がなら、自分が救われることに必死で、相手の存在が消えてしまっている。
この心の持ちようは、誰もわざとじゃないし悪気がないのも百も承知のうえだが、
でも事実は、残念ながら統合の意識ではなく分離の意識だ。
分離の意識とは、奪い合いの精神。
奪い合いは奪い合いを産む。終いには仮想敵まで創りだす。
反対に、統合の意識とは、犠牲者を出さずに、みんなで一緒に勝ちにいく精神。
(ここでは分かりやすいのであえての勝ち負けの表現をします)
もちろん、当時の母を筆頭に、周りの大人達を否定するつもりは更々ない。
なぜならごく自然な反応だと思うし、そこにも大前提として愛があると感じるから。
でも、当時の大人達のスタンスが、「愛の視点に基づいた統合の意識なのか?」と聞かれたら、答えはNOだと思う。
もちろん妹を思ってのことだが、でもそれ以上に、「自分のこの苦しみから逃れたい!」という気持ちの方が強いからこそ、
泣き言を言わずに気丈に頑張っている妹以上に錯乱状態になれたり、まだ見ぬ未来のことを語り始めることができてしまうのだ。
当時の私は周りとは違う道を選んだ。
妹とよほど縁が強いのか?神様からの思し召しなのか?
ひたすら「もうアカン・・・。」と何日もの間、頭の中でフリーズを繰り返していた。
今この瞬間の自分の気持ちに正直に、今に集中していたのだ。
そんな日を2週間ほど過ごしたある日ふと「・・・なんか大丈夫な気がする!」と自分の中から声が聞こえてきたように感じた。
その瞬間に、変わらず泣き続けている母に、
「今日を限りに泣くのはやめよう。一番辛いのは妹だから。次泣くのは妹が退院した時にしよう!その時には思いっきり歓びの涙を流そう!もう泣いてても仕方がない!今自分たちにできることを全力でやろう!!!」
天にもこの気迫が届いたのか、
骨髄移植のためのドナーの検査は医学会に提出レベルで、姉である私がフルマッチで妹と適合!
生まれて初めて面と向かって医者から「奇跡です!」と言われた。
医学に基づいて超理論的に、現実的に、肉体に対して治療を施す立場の医療従事者達が「奇跡だ!」とキャッキャと喜んでいる姿を見て、
「皆さんいい人たちだなぁ。益々大丈夫な気がする!」と、希望を感じたこともよく覚えている。
そこから妹は名実ともに「奇跡の復活」を果たし、現在は健康に生きている。
優しい旦那さんと結婚して、可愛い子どもも授かった。もう4歳だ。
今この原稿をお気に入りの喫茶店で珈琲を飲みながら執筆しているのだが、
改めてつくづく思う。
あの時、カッコつけずに、誰よりもちゃんとメソメソしてよかったって。
「もうアカン・・・。」って徹底的に感じまくってよかったって。
急いで大人にならなくて本当によかった。カッコつなくてよかった。
言葉尻は絶望そのものだが、感じきったら想いは希望に変わる。
それにどんな残酷な感情も、感じて感じて感じまくったら、次第に飽きてくる。
どんなに辛くても、先が見えなくても、今この瞬間の想いから目を逸らさなかったら、人間って慣れて飽きてくる生き物なんだということもこの時に学んだ。
この前のお盆休みに、妹と一緒にアフタヌーンティーを食べに行った。
美味しくて美しいスイーツという名のカロリー爆弾を目の前に、
「もうアカン!幸せすぎる!!!♡」と笑顔で叫んだ妹の姿が眩しかった。
妹の歓喜の笑顔にまんまとやられた私は、当初は割り勘の予定だったけど、奢ってあげた。笑
「もうアカン」は希望の言葉。
今日も私は、カッコつけずに生きていく!