認知症 忘れた孫に会っても……
正月、実家(父方の祖母宅)に帰った。コロナ禍に入ってから長期休みでも帰っていなかったので、4年ぶりのはず。変わらず、コンビニに行くにも車がいるほどの田舎だ。駅からスーパーに寄ると、同じく地元に戻ってきたのか若い人も見かけてなんとなく安心した。
本当は都市部に実家があるが、正月は昔から、県の一番端の町にある祖母の家で過ごす。数年前に来たときにはまだ元気だった祖母も、今では施設暮らしだ。久しぶりに上がった祖母の家の玄関は、両親がいても人の気配があまりなく、空気も薄く感じた。
両親から聞いていたが、祖母は認知症が進んでおり、前日に来ていた兄のことを思い出せなかったらしい。兄の名前は知っている=兄が自分の孫として存在していることは覚えているが、目の前にいる人物がその人だとわからない。兄はわたしと歳が離れているので30代後半だが、きっと祖母のなかでは小さいころのままで止まっているのだろう。それはそれで幸せな記憶かもしれない。
大晦日、わたしも両親に連れられて祖母に会いに行った。正直、気乗りしなかった。身内が老いていくのを見るのに抵抗があった。約4年ぶりに会った両親が想像以上に白髪だらけになっていて、内心ショックを受けたからだ。ただ、帰ったからには祖母に会わなければならないという義務感もある。とくに反抗せず、黙ってついて行った。
驚いたのだが、感染防止のためか、「祖母に会う」といっても窓越しに5分だけ顔を合わせ、携帯電話を通じて会話する。まさに「面会」という感じ。しかも、外。室内にいる祖母と窓を挟んで建物の外で話す。素直に「変だな」と思った。
開口一番、「誰?」と言われたが、思っていたより何も感じなかった。彼女(祖母)は、わたしの名前とわたしが一致しないのではなく、自分の孫の中にわたしがいたこと自体、忘れていた。わたしはほとんどの兄弟や従妹と比べて10年以上あとに生まれている。彼女と一緒に過ごした期間もそこまで長くない。記憶に残りづらいのは当然か。
でも、父親は違った。なんとか彼女にわたしがわたしであると思い出させようとしていた。笑いながらではあるが、苦笑いに見えた。自分の母親が老いていく様子が悲しいのか、自分の子どもの存在を忘れてしまったのが悲しいのか、はたまたそこまで深く考えていないのか。とはいえ、気まずい空気だったと思う。
帰り際、「穏やかに生活してるんやから、もう思い出させなくてええやないの」と言った母親に共感した。
急に知らない人を紹介されて、「孫です」と言われても戸惑うだろう。別に思い出さなくていいし、孫が存在しない世界線で暮らしていて良いと思う。別に不幸じゃない。今の彼女にとっては、施設のお姉さんが家族なのだから。
忘れられていることを知って、まったく傷つかなかった。ただただ、こうやって人は変わっていくんだな、という感想だけ。