「公共の空間」ということ。
この雰囲気が無理。なんか苦しい。
私がそう感じたのは、今日電車に乗っていた時。
終点まで乗るから座れたらいいなという思いが幸いにも叶って安堵。
2つ隣の座席には小さな子供2人(男の子と女の子)とそのお母さんがいた。
どうやら電車内で遊んでいるみたい。
走り回っているわけではないけれど、座席で少し暴れている?というか落ち着きがなさすぎるというか。
大袈裟で少し辛辣な言い方になってしまうけど、その親子にとって電車内が家とか保育園とか幼稚園になってない?と思っちゃった。
正直ちょっと迷惑だなーと。でも小さい子のことは理解したいと思うし、私だって幼い頃電車に乗ってこうだったかもしれないと思うとしょうがないのかなとも思った。
それでもやっぱり心がざわつく。
ずっと落ち着きがない子供と、そこへ向けられる電車に乗り合わせた人たちの視線。誰も声をかけたりとかは何にもしない。ただ気になってなのか静かにしてほしいという思いなのか、色んな意味が込められた視線。
この雰囲気に耐えられなかった。
そして肝心のお母さんは、注意こそするものの目線はずっとスマホ。視界には子供の様子が入っているのだろうが、誰に向けた注意の声なの?と思ってしまう。
「口にしただけ」の注意の声と、その親子に向けられる色んな意味を含んだ視線。少なくとも私にとっては冷たい視線に感じられたが。
自分が注意されたわけでも冷たい視線を向けられたわけでもないけど、なぜか私が苦しかった。無理だった。
結局終点まで状況は変わらなかった。まあ大きなトラブルとかにならなくて良かったと、それだけ思った。
私も含め、こういう状況に出くわした時、みんな変に干渉したりはしない。むしろ避けているくらい。
でも電車という公共空間の中で、そこには意図せず発生する秩序があって。あの空気、目の動き、それだけで行動の自由が制限されているのが分かるようだった。
苦しかった空間、瞬間だけど改めて考えてみると社会性というかなんというか、面白さもあるなあと。
あと、あのお母さん。
「子供と一緒に電車に乗っている」(公共空間)がありながらも、自分はスマホに目を落とし「自分だけの世界」(私的空間)にいるなあと。
不思議だけど実際に自分も普段からしている、見ている状況でこれもなかなか面白い。
ここで勝手に人の行動についてあれこれ言っている私もどうかと思ったり思わなかったりしますが、ちょっとモヤモヤだったので自分の心の健康のためにと思って書いてます。お許しください。
今日はもっと楽しいこと嬉しいことがあったりもしたので、またどこかで振り返ろうと思います。
ではでは。
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